[hs-a12] 幻の寝台 – 恐ろしく憂欝なる

こんもりとした森の木立のなかで
いちめんに白い蝶類が飛んでいる
むらがる むらがりて飛びめぐる
てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
みどりの葉のあつぼつたい隙間から
ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼
いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
ああ これはなんといふ憂欝な幻だ
このおもたい手足 おもたい心臓
かぎりなくなやましい物質と物質との重なり
ああ これはなんといふ美しい病気だらう
つかれはてたる神経のなまめかしいたそがれどきに
私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を
つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを
その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに
私の青ざめた屍体のくちびるに
額に 髪に 髪の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに
みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ
むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり
ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集団
ああこの恐ろしい地上の陰影
このなまめかしいまぼろしの森の中に
しだいにひろがつてゆく憂欝の日かげをみつめる
その私の心はばたばたと羽ばたきして
小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ
ああこのたへがたく悩ましい性の感覚
あまりに恐ろしく憂欝なる。

[hs-a13] 憂欝なる桜 – 憂欝なる花見

憂欝なる桜が遠くからにほひはじめた
桜の枝はいちめんにひろがつている
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く桜のはなは酢え
桜のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
いまひとびとは帽子をかぶつて外光の下を歩きにでる
さうして日光が遠くにかがやいている
けれども私はこの暗い室内にひとりで坐つて
思ひをはるかなる桜のはなの下によせ
野山にたはむれる青春の男女によせる
ああいかに幸福なる人生がそこにあるか
なんといふよろこびが輝やいていることか
いちめんに枝をひろげた桜の花の下で
わかい娘たちは踊ををどる
娘たちの白くみがいた踊の手足
しなやかにおよげる衣装
ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつていることか
花見のうたごえは横笛のやうにのどかで
かぎりなき憂欝のひびきをもつてきこえる。
いま私の心は涙をもてぬぐはれ
閉じこめたる窓のほとりに力なくすすりなく
ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命をもとめ
なにものの影をみつめて泣いているのか
ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで
遠く花見の憂欝なる横笛のひびきをきく。

[hs-a16] 憂欝なる桜 – 憂欝の川辺

川辺で鳴つている
芦や葦のさやさやといふ音はさびしい
しぜんに生えてる
するどい ちひさな植物 草本の茎の類はさびしい
私は眼を閉じて
なにかの草の根を噛まうとする
なにかの草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために
げにそこにはなにごとの希望もない
生活はただ無意味な憂欝の連なりだ
梅雨だ
じめじめとした雨の点滴のやうなものだ
しかし ああ また雨! 雨! 雨!
そこには生える不思議の草本
あまたの悲しい羽虫の類
それは憂欝に這ひまはる 岸辺にそうて這ひまはる
じめじめとした川の岸辺を行くものは
ああこの光るいのちの葬列か
光る精神の病霊か
物みなしぜんに腐れゆく岸辺の草むら
雨に光る木材質のはげしき匂ひ。