[hs-t56] 長詩二篇 – 笛

子供は笛が欲しかつた。
その時子供のお父さんは書きものをして居るらしく思はれた。
子供はお父さんの部屋をのぞきに行つた。
子供はひつそりと扉のかげに立つていた。
扉のかげにはさくらの花のにほひがする。

そのとき室内で大人はかんがへこんでいた、
大人の思想がくるくると渦まきをした、ある混み入つた思想のじれんまが大人の心を痙攣させた。
みれば、ですくの上に突つ伏した大人の額を、いつのまにか蛇がぎりぎりとまきつけていた。
それは春らしい今朝の出来事が、そのひとの心を憂はしくしたのである。

本能と良心と、
わかちがたき一つの心をふたつにわかたんとする大人の心のうらさびしさよ、
力をこめて引きはなされた二つの影は、糸のやうにもつれあひつつ、ほのぐらき明窓のあたりをさまようた。
人は自分の頭のうへに、それらの悲しい幽霊の通りゆく姿をみた。
大人は恐ろしさに息をひそめながら祈をはじめた
「神よ、ふたつの心をひとつにすることなからしめたまへ」
けれどもながいあひだ、幽霊は扉のかげを出這入りした。
扉のかげにはさくらの花のにほひがした。
そこには青白い顔をした病身のかれの子供が立つて居た。
子供は笛が欲しかつたのである。

子供は扉をひらいて部屋の一隅に立つていた。
子供は窓際のですくに突つ伏したおほいなる父の頭脳をみた。
その頭脳のあたりは甚だしい陰影になつていた。
子供の視線が蝿のやうにその場所にとまつていた。
子供のわびしい心がなにものかにひきつけられていたのだ。
しだいに子供の心が力をかんじはじめた、
子供は実に、はつきりとした声で叫んだ。
みればそこには笛がおいてあつたのだ。
子供が欲しいと思つていた紫いろの小さい笛があつたのだ。

子供は笛に就いてなにごとも父に話してはなかつた。
それ故この事実はまつたく偶然の出来事であつた。
おそらくはなにかの不思議なめぐりあはせであつたのだ。
けれども子供はかたく父の奇跡を信じた。
もつとも偉大なる大人の思想が生み落した陰影の笛について、
卓の上に置かれた笛について。

[hs-t41] さびしい情慾 – 愛憐

きつと可愛いかたい歯で、
草のみどりをかみしめる女よ、
女よ、
このうす青い草のいんきで、
まんべんなくお前の顔をいろどつて、
おまへの情慾をたかぶらしめ、
しげる草むらでこつそりあそばう、
みたまへ、
ここにはつりがね草がくびをふり、
あそこではりんだうの手がしなしなと動いている、
ああわたしはしつかりとお前の乳房を抱きしめる、
お前はお前で力いつぱいに私のからだを押へつける、
さうしてこの人気のない野原の中で、
わたしたちは蛇のやうなあそびをしよう、
ああ私は私できりきりとお前を可愛がつてやり、
おまへの美しい皮膚の上に、青い草の葉の汁をぬりつけてやる。

[hs-t40] くさつた蛤 – 贈物にそへて

兵隊どもの列の中には、
性分のわるいものが居たので、
たぶん標的の図星をはづした。
銃殺された男が、
夢のなかで息をふきかへしたときに、
空にはさみしいなみだがながれていた。
『これはさういふ種類の煙草です』

[hs-t39] くさつた蛤 – 春の実体

かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、
春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
桜のはなをみてあれば、
桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、
やなぎの枝にも、もちろんなり、
たとへば蛾蝶のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、
それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ、瞳にもみえざる、
このかすかな卵のかたちは楕円形にして、
それがいたるところに押しあひへしあひ、
空気中いつぱいにひろがり、
ふくらみきつたごむまりのやうに固くなつているのだ、
よくよく指のさきでつついてみたまへ、
春といふものの実体がおよそこのへんにある。

[hs-t38] くさつた蛤 – くさつた蛤

半身は砂のなかにうもれていて、
それで居てべろべろ舌を出して居る。
この軟体動物のあたまの上には、
砂利や潮みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れている、
ながれている、
ああ夢のやうにしづかにもながれている。

ながれてゆく砂と砂との隙間から、
蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる、
この蛤は非常に憔悴れているのである。
みればぐにやぐにやした内臓がくさりかかつて居るらしい、
それゆえ哀しげな晩かたになると、
青ざめた海岸に坐つていて、
ちら、ちら、ちら、ちらとくさつた息をするのですよ。

[hs-t37] くさつた蛤 – 陽春

ああ、春は遠くからけぶつて来る、
ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに、
やさしいくちびるをさしよせ、
をとめのくちづけを吸ひこみたさに、
春は遠くからごむ輪のくるまにのつて来る。
ぼんやりした景色のなかで、
白いくるまやさんの足はいそげども、
ゆくゆく車輪がさかさにまわり、
しだいに梶棒が地面をはなれ出し、
おまけにお客さまの腰がへんにふらふらとして、
これではとてもあぶなさうなと、
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。

[hs-t36] くさつた蛤 – 麦畑の一隅にて

まつ正直の心をもつて、
わたくしどもは話がしたい、
信仰からきたるものは、
すべて幽霊のかたちで視える、
かつてわたくしが視たところのものを、
はつきりと汝にもきかせたい、
およそこの類のものは、
さかんに装束せる、
光れる、
おほいなるかくしどころをもつた神の半身であつた。

[hs-t34] くさつた蛤 – 猫

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでいる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

[hs-t33] くさつた蛤 – ありあけ

ながい疾患のいたみから、
その顔はくもの巣だらけとなり、
腰からしたは影のやうに消えてしまひ、
腰からうへには薮が生え、
手が腐れ
身体いちめんがじつにめちやくちやなり、
ああ、けふも月が出で、
有明の月が空に出で、
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、
畸形の白犬が吠えている。
しののめちかく、
さみしい道路の方で吠える犬だよ。