[hs-a22] さびしい青猫 – 艶めかしい墓場

風は柳を吹いています
どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。
なめくじは垣根を這ひあがり
みはらしの方から生あつたかい潮みづがにほつてくる。
どうして貴女はここに来たの
やさしい 青ざめた 草のやうにふしぎな影よ
貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない
さうしてさびしげなる亡霊よ
貴女のさまよふからだの影から
まづしい漁村の裏通りで 魚のくさつた臭ひがする
その腸は日にとけてどろどろと生臭く
かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。

ああ この春夜のやうになまぬるく
べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ
妹のやうにやさしいひとよ
それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 真理でもない
さうしてただなんといふ悲しさだらう。
かうして私の生命や肉体はくさつてゆき
「虚無」のおぼろげな景色のかげで
艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。

[st-w05] 一 秋の思 – 髪を洗へば

髪を洗へば紫の
小草のまへに色みえて
足をあぐれば花鳥の
われに随ふ風情あり

目にながむれば彩雲の
まきてはひらく絵巻物
手にとる酒は美酒の
若き愁をたゝふめり

耳をたつれば歌神の
きたりて玉の簫を吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ

あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな

[hs-a36] 閑雅な食慾 – 馬車の中で

馬車の中で
私はすやすやと眠つてしまつた。
きれいな婦人よ
私をゆり起してくださるな
明るい街灯の巷をはしり
すずしい緑蔭の田舎をすぎ
いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでいる。
ああ蹄の音もかつかつとして
私はうつつにうつつを追ふ
きれいな婦人よ
旅館の花ざかりなる軒にくるまで
私をゆり起してくださるな。

[st-w55] 四 深林の逍遥、其他 – 天馬 雄馬

あな天雲にともなはれ
緑の髪をうちふるひ
雄馬は人に随ひて
箱根の嶺を下りけり
胸は踊りて八百潮の
かの蒼溟に湧くごとく
喉はよせくる春涛を
飲めども渇く風情あり
目はひさかたの朝の星
睫毛は草の浅緑
うるほひ光る眼瞳には
千里の外もほがらにて
東に照らし西に入る
天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛さへ
雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば
いと幽なる朝風に
そよげる草の葉のごとく
蹄の音をたとふれば
紫金の色のやきがねを
高くも叩く響あり
狂へば長き鬣の
うちふりうちふる乱れ髪
燃えてはめぐる血の潮の
流れて踊る春の海
噴く紅の光には
火炎の気息もあらだちて
深くも遠き嘶声は
大神の住む梁の
塵を動かす力あり
あゝ朝鳥の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つげわたる鳥の音に
木曽の御岳の巌を越え
かの青雲に嘶きて
天より天の電影の
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき
主人のあとをとめくれば
箱根も遠し三井寺や
日も暖に花深く
さゝなみ青き湖の
岸の此彼草を行く
天の雄馬のすがたをば
誰かは思ひ誰か知る
しらずや人の天雲に
歩むためしはあるものを
天馬の下りて大土に
歩むためしのなからめや
見よ藤の葉の影深く
岸の若草香にいでて
春花に酔ふ蝶の夢
そのかげを履む雄馬には
一つの紅き春花に
見えざる神の宿あり
一つうつろふ野の色に
つきせぬ天のうれひあり
嗚呼鷲鷹の飛ぶ道に
高く懸れる大空の
無限の絃に触れて鳴り
男神女神に戯れて
照る日の影の雲に鳴き
空に流るゝ満潮を
飲みつくすとも渇くべき
天馬よ汝が身を持ちて
鳥のきて啼く鳰の海
花橘の蔭を履む
その姿こそ雄々しけれ

[hs-a04] 幻の寝台 – 強い腕に抱かる

風にふかれる葦のやうに
私の心は弱弱しく いつも恐れにふるへている
女よ
おまへの美しい精悍の右腕で
私のからだをがつしりと抱いてくれ
このふるへる病気の心を しづかにしづかになだめてくれ
ただ抱きしめてくれ私のからだを
ひつたりと肩によりそひながら
私の弱弱しい心臓の上に
おまへのかはゆらしい あたたかい手をおいてくれ
ああ 心臓のここのところに手をあてて
女よ
さうしておまへは私に話しておくれ
涙にぬれたやさしい言葉で
「よい子よ
恐れるな なにものをも恐れなさるな
あなたは健康で幸福だ
なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません
ただ遠方をみつめなさい
めばたきをしなさるな
めばたきをするならば あなたの弱弱しい心は鳥のやうに飛んで行つてしまふのだ
いつもしつかりと私のそばによりそつて
私のこの健康な心臓を
このうつくしい手を
この胸を この腕を
さうしてこの精悍の乳房をしつかりと。」

[st-w34] 三 生のあけぼの – 暮

たれか聞くらん暮の声
霞の翼雲の帯
煙の衣露の袖
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて
夜の使の蝙蝠の
飛ぶ間も声のをやみなく
こゝに影あり迷あり
こゝに夢あり眠あり
こゝに闇あり休息あり
こゝに永きあり遠きあり
こゝに死ありとうたひつゝ
草木にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隠るゝ