[hs-t30] くさつた蛤 – 春夜

浅蜊のやうなもの、
蛤のやうなもの、
みじんこのやうなもの、
それら生物の身体は砂にうもれ、
どこからともなく、
絹いとのやうな手が無数に生え、
手のほそい毛が浪のまにまにうごいている。
あはれこの生あたたかい春の夜に、
そよそよと潮みづながれ、
生物の上にみづながれ、
貝るいの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、
とほく渚の方を見わたせば、
ぬれた渚路には、
腰から下のない病人の列があるいている、
ふらりふらりと歩いている。
ああ、それら人間の髪の毛にも、
春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、
よせくる、よせくる、
このしろき浪の列はさざなみです。

[hs-a07] 幻の寝台 – 青猫

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ桜の並木
そこにも無数の雀がさへづつているではないか。

ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれている
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

[hs-a55] ○ – 軍隊

通行する軍隊の印象

この重量のある機械は
地面をどつしりと圧へつける
地面は強く踏みつけられ
反動し
濛濛とする埃をたてる。
この日中を通つている
巨重の逞ましい機械をみよ
黝鉄の油ぎつた
ものすごい頑固な巨体だ
地面をどつしりと圧へつける
巨きな集団の動力機械だ。
づしり、づしり、ばたり、ばたり
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

この兇逞な機械の行くところ
どこでも風景は褪色し
黄色くなり
日は空に沈欝して
意志は重たく圧倒される。
づしり、づしり、ばたり、ばたり
お一、二、お一、二。

お この重圧する
おほきなまつ黒の集団
浪の押しかへしてくるやうに
重油の濁つた流れの中を
熱した銃身の列が通る
無数の疲れた顔が通る。
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく
お一、二、お一、二。

暗澹とした空の下を
重たい鋼鉄の機械が通る
無数の拡大した瞳孔が通る
それらの瞳孔は熱にひらいて
黄色い風景の恐怖のかげに
空しく力なく彷徨する。
疲労し
困憊し
幻惑する。
お一、二、お一、二
歩調取れえ!

お このおびただしい瞳孔
埃の低迷する道路の上に
かれらは憂欝の日ざしをみる
ま白い幻像の市街をみる
感情の暗く幽囚された。
づしり、づしり、づたり、づたり
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

いま日中を通行する
黝鉄の凄く油ぎつた
巨重の逞ましい機械をみよ
この兇逞な機械の踏み行くところ
どこでも風景は褪色し
空気は黄ばみ
意志は重たく圧倒される。
づしり、づしり、づたり、づたり
づしり、どたり、ばたり、ばたり。
お一、二、お一、二。