[hs-t30] くさつた蛤 – 春夜

浅蜊のやうなもの、
蛤のやうなもの、
みじんこのやうなもの、
それら生物の身体は砂にうもれ、
どこからともなく、
絹いとのやうな手が無数に生え、
手のほそい毛が浪のまにまにうごいている。
あはれこの生あたたかい春の夜に、
そよそよと潮みづながれ、
生物の上にみづながれ、
貝るいの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、
とほく渚の方を見わたせば、
ぬれた渚路には、
腰から下のない病人の列があるいている、
ふらりふらりと歩いている。
ああ、それら人間の髪の毛にも、
春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、
よせくる、よせくる、
このしろき浪の列はさざなみです。

[hs-t31] くさつた蛤 – ばくてりやの世界

ばくてりやの足、
ばくてりやの口、
ばくてりやの耳、
ばくてりやの鼻、

ばくてりやがおよいでいる。

あるものは人物の胎内に、
あるものは貝るいの内臓に、
あるものは玉葱の球心に、
あるものは風景の中心に。

ばくてりやがおよいでいる。

ばくてりやの手は左右十文字に生え、
手のつまさきが根のやうにわかれ、
そこからするどい爪が生え、
毛細血管の類はべたいちめんにひろがつている。

ばくてりやがおよいでいる。

ばくてりやが生活するところには、
病人の皮膚をすかすやうに、
べにいろの光線がうすくさしこんで、
その部分だけほんのりとしてみえ、
じつに、じつに、かなしみたへがたく見える。

ばくてりやがおよいでいる。

[hs-a26] さびしい青猫 – 寄生蟹のうた

潮みづのつめたくながれて
貝の歯はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた
ああここにはもはや友だちもない 恋もない
渚にぬれて亡霊のやうな草を見ている
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい恋びとの吐息のやうです。
おぼろにみえる沖の方から
船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。
あやしくもここの磯辺にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹の幽霊ですよ。

[st-w15] 一 秋の思 – 別離

人妻をしたへる男の山に登り其
女の家を望み見てうたへるうた
誰かとゞめん旅人の
あすは雲間に隠るゝを
誰か聞くらん旅人の
あすは別れと告げましを

清き恋とや片し貝
われのみものを思ふより
恋はあふれて濁るとも
君に涙をかけましを

人妻恋ふる悲しさを
君がなさけに知りもせば
せめてはわれを罪人と
呼びたまふこそうれしけれ

あやめもしらぬ憂しや身は
くるしきこひの牢獄より
罪の鞭責をのがれいで
こひて死なんと思ふなり

誰かは花をたづねざる
誰かは色彩に迷はざる
誰かは前にさける見て
花を摘まんと思はざる

恋の花にも戯るゝ
嫉妬の蝶の身ぞつらき
二つの羽もをれ/\て
翼の色はあせにけり

人の命を春の夜の
夢といふこそうれしけれ
夢よりもいや/\深き
われに思ひのあるものを

梅の花さくころほひは
蓮さかばやと思ひわび
蓮の花さくころほひは
萩さかばやと思ふかな

待つまも早く秋は来て
わが踏む道に萩さけど
濁りて待てる吾恋は
清き怨となりにけり