[hs-a09] 幻の寝台 – 春の感情

ふらんすからくる煙草のやにのにほひのやうだ
そのにほひをかいでいると気がうつとりとする
うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情
つめたい銀いろの小鳥のなきごえ
春がくるときのよろこびは
あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのやうだ
ふるへる めづらしい野路のくさばな
おもたく雨にぬれた空気の中にひろがるひとつの音色
なやましき女のなきごえはそこにもきこえて
春はしつとりとふくらんでくるやうだ。
春としなれば山奥のふかい森の中でも
くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに
私のたましひはぞくぞくとして菌を吹き出す
たとへば毒だけ へびだけ べにひめじのやうなもの
かかる菌の類はあやしげなる色香をはなちて
ひねもすさびしげに匂つている。

春がくる 春がくる
春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ
そこにもここにも
ぞくぞくとしてふきだす菌 毒だけ
また薮かげに生えてほのかに光るべにひめじの類。

[hs-a19] さびしい青猫 – みじめな街灯

雨のひどくふつてる中で
道路の街灯はびしよびしよぬれ
やくざな建築は坂に傾斜し へしつぶされて歪んでいる
はうはうぼうぼうとした煙霧の中を
あるひとの運命は白くさまよふ
そのひとは大外套に身をくるんで
まづしく みすぼらしい鳶のやうだ
とある建築の窓に生えて
風雨にふるへる ずつくりぬれた青樹をながめる
その青樹の葉つぱがかれを手招き
かなしい雨の景色の中で
厭やらしく 霊魂のぞつとするものを感じさせた。
さうしてびしよびしよに濡れてしまつた。
影も からだも 生活も 悲哀でびしよびしよに濡れてしまつた。