[hs-t22] 悲しい月夜 – 悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えている。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱している、
合唱している。
波止場のくらい石垣で。

いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

[hs-t31] くさつた蛤 – ばくてりやの世界

ばくてりやの足、
ばくてりやの口、
ばくてりやの耳、
ばくてりやの鼻、

ばくてりやがおよいでいる。

あるものは人物の胎内に、
あるものは貝るいの内臓に、
あるものは玉葱の球心に、
あるものは風景の中心に。

ばくてりやがおよいでいる。

ばくてりやの手は左右十文字に生え、
手のつまさきが根のやうにわかれ、
そこからするどい爪が生え、
毛細血管の類はべたいちめんにひろがつている。

ばくてりやがおよいでいる。

ばくてりやが生活するところには、
病人の皮膚をすかすやうに、
べにいろの光線がうすくさしこんで、
その部分だけほんのりとしてみえ、
じつに、じつに、かなしみたへがたく見える。

ばくてりやがおよいでいる。

[hs-t44] さびしい情慾 – 白い月

はげしいむし歯のいたみから、
ふくれあがつた頬つぺたをかかへながら、
わたしは棗の木の下を掘つていた、
なにかの草の種を蒔かうとして、
きやしやの指を泥だらけにしながら、
つめたい地べたを堀つくりかへした、
ああ、わたしはそれをおぼえている、
うすらさむい日のくれがたに、
まあたらしい穴の下で、
ちろ、ちろ、とみみずがうごいていた、
そのとき低い建物のうしろから、
まつしろい女の耳を、
つるつるとなでるやうに月があがつた、
月があがつた。
幼童思慕詩篇

[hs-a25] さびしい青猫 – 緑色の笛

この黄昏の野原のなかを
耳のながい象たちがぞろりぞろりと歩いている。
黄色い夕月が風にゆらいで
あちこちに帽子のやうな草つぱがひらひらする。
さびしいですか お嬢さん!
ここに小さな笛があつて その音色は澄んだ緑です。
やさしく歌口をお吹きなさい
とうめいなる空にふるへて
あなたの蜃気楼をよびよせなさい
思慕のはるかな海の方から
ひとつの幻像がしだいにちかづいてくるやうだ。
それはくびのない猫のやうで 墓場の草影にふらふらする
いつそこんな悲しい暮景の中で 私は死んでしまひたいのです。お嬢さん!

[hs-a33] さびしい青猫 – さびしい来歴

むくむくと肥えふとつて
白くくびれているふしぎな球形の幻像よ
それは耳もない 顔もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ
夏雲よ なんたるとりとめのない寂しさだらう
どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ恋人もありはしない。
わたしは駱駝のやうによろめきながら
椰子の実の日にやけた核を噛みくだいた。
ああ こんな乞食みたいな生活から
もうなにもかもなくしてしまつた
たうとう風の死んでる野道へきて
もろこしの葉うらにからびてしまつた。
なんといふさびしい自分の来歴だらう。

[hs-a38] 閑雅な食慾 – 最も原始的な情緒

この密林の奥ふかくに
おほきな護謨葉樹のしげれるさまは
ふしぎな象の耳のやうだ。
薄闇の湿地にかげをひいて
ぞくぞくと這へる羊歯植物 爬虫類
蛇 とかげ いもり 蛙 さんしようをの類。

白昼のかなしい思慕から
なにをあだむが追憶したか
原始の情緒は雲のやうで
むげんにいとしい愛のやうで
はるかな記憶の彼岸にうかんで
とらへどころもありはしない。

[st-w05] 一 秋の思 – 髪を洗へば

髪を洗へば紫の
小草のまへに色みえて
足をあぐれば花鳥の
われに随ふ風情あり

目にながむれば彩雲の
まきてはひらく絵巻物
手にとる酒は美酒の
若き愁をたゝふめり

耳をたつれば歌神の
きたりて玉の簫を吹き
口をひらけばうたびとの
一ふしわれはこひうたふ

あゝかくまでにあやしくも
熱きこゝろのわれなれど
われをし君のこひしたふ
その涙にはおよばじな