[hs-a34] 閑雅な食慾 – 怠惰の暦

いくつかの季節はすぎ
もう憂欝の桜も白つぽく腐れてしまつた
馬車はごろごろと遠くをはしり
海も 田舎も ひつそりとした空気の中に眠つている
なんといふ怠惰な日だらう
運命はあとからあとからとかげつてゆき
さびしい病欝は柳の葉かげにけむつている
もう暦もない 記憶もない
わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。
むかしの恋よ 愛する猫よ
わたしはひとつの歌を知つてる
さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻を投げよう
ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。

[hs-a46] 閑雅な食慾 – 遺伝

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つている。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えています。
のをあある とをあある やわあ

もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向うで吠えている
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ

「犬は病んでいるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢えているのです。」

遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。

犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ

「犬は病んでいるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢えているのですよ。」

[st-w34] 三 生のあけぼの – 暮

たれか聞くらん暮の声
霞の翼雲の帯
煙の衣露の袖
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投げ入れて
夜の使の蝙蝠の
飛ぶ間も声のをやみなく
こゝに影あり迷あり
こゝに夢あり眠あり
こゝに闇あり休息あり
こゝに永きあり遠きあり
こゝに死ありとうたひつゝ
草木にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隠るゝ