[hs-t50] 見知らぬ犬 – 山に登る

旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでいた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれている、
おれは小石をひろつて口にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいていた。

おれはいまでも、お前のことを思つているのだ。

[hs-a34] 閑雅な食慾 – 怠惰の暦

いくつかの季節はすぎ
もう憂欝の桜も白つぽく腐れてしまつた
馬車はごろごろと遠くをはしり
海も 田舎も ひつそりとした空気の中に眠つている
なんといふ怠惰な日だらう
運命はあとからあとからとかげつてゆき
さびしい病欝は柳の葉かげにけむつている
もう暦もない 記憶もない
わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。
むかしの恋よ 愛する猫よ
わたしはひとつの歌を知つてる
さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻を投げよう
ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。

[hs-a36] 閑雅な食慾 – 馬車の中で

馬車の中で
私はすやすやと眠つてしまつた。
きれいな婦人よ
私をゆり起してくださるな
明るい街灯の巷をはしり
すずしい緑蔭の田舎をすぎ
いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでいる。
ああ蹄の音もかつかつとして
私はうつつにうつつを追ふ
きれいな婦人よ
旅館の花ざかりなる軒にくるまで
私をゆり起してくださるな。

[st-w55] 四 深林の逍遥、其他 – 天馬 雄馬

あな天雲にともなはれ
緑の髪をうちふるひ
雄馬は人に随ひて
箱根の嶺を下りけり
胸は踊りて八百潮の
かの蒼溟に湧くごとく
喉はよせくる春涛を
飲めども渇く風情あり
目はひさかたの朝の星
睫毛は草の浅緑
うるほひ光る眼瞳には
千里の外もほがらにて
東に照らし西に入る
天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛さへ
雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば
いと幽なる朝風に
そよげる草の葉のごとく
蹄の音をたとふれば
紫金の色のやきがねを
高くも叩く響あり
狂へば長き鬣の
うちふりうちふる乱れ髪
燃えてはめぐる血の潮の
流れて踊る春の海
噴く紅の光には
火炎の気息もあらだちて
深くも遠き嘶声は
大神の住む梁の
塵を動かす力あり
あゝ朝鳥の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つげわたる鳥の音に
木曽の御岳の巌を越え
かの青雲に嘶きて
天より天の電影の
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき
主人のあとをとめくれば
箱根も遠し三井寺や
日も暖に花深く
さゝなみ青き湖の
岸の此彼草を行く
天の雄馬のすがたをば
誰かは思ひ誰か知る
しらずや人の天雲に
歩むためしはあるものを
天馬の下りて大土に
歩むためしのなからめや
見よ藤の葉の影深く
岸の若草香にいでて
春花に酔ふ蝶の夢
そのかげを履む雄馬には
一つの紅き春花に
見えざる神の宿あり
一つうつろふ野の色に
つきせぬ天のうれひあり
嗚呼鷲鷹の飛ぶ道に
高く懸れる大空の
無限の絃に触れて鳴り
男神女神に戯れて
照る日の影の雲に鳴き
空に流るゝ満潮を
飲みつくすとも渇くべき
天馬よ汝が身を持ちて
鳥のきて啼く鳰の海
花橘の蔭を履む
その姿こそ雄々しけれ

[st-w23] 三 生のあけぼの – 草枕

夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな

若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり

芦葉を洗ふ白波の
流れて巌を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ

かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね侘び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん

われもそれかやうれひかや
野末に山に谷蔭に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ

想も薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行くへもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな

身を朝雲にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨にたとふれば
あしたの雨の風となる

されば落葉と身をなして
風に吹かれて飄り
朝の黄雲にともなはれ
夜白河を越えてけり

道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ

心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲み深き吾目には
色彩なき石も花と見き

あゝ孤独の悲痛を
味ひ知れる人ならで
誰にかたらん冬の日の
かくもわびしき野のけしき

都のかたをながむれば
空冬雲に覆はれて
身にふりかゝる玉霰
袖の氷と閉じあへり

みぞれまじりの風勁く
小川の水の薄氷
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か

啼いて羽風もたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空の
汝も荒れたる野にむせぶ

涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてて
ひとりさまよふ吾身かな

かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び音に
声もあはれのその歌は

うれしや物の音を弾きて
野末をかよふ人の子よ
声調ひく手も凍りはて
なに門づけの身の果ぞ

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿

野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海

朝は海辺の石の上に
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは涛ばかり

暮はさみしき荒磯の
潮を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
湧きくるものは涙のみ

さみしいかなや荒波の
岩に砕けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
潮とともに帰るとき

誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる

暦もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて潮となりにけり

遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音は
まだうらわかき野路の鳥

嗚呼めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづぬれば
緑の羽もまだ弱き
それも初音か鴬の

春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の上に

春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の辺に

磯辺に高き大巌の
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらん東雲の
潮の音遠き朝ぼらけ