馬車の中で
私はすやすやと眠つてしまつた。
きれいな婦人よ
私をゆり起してくださるな
明るい街灯の巷をはしり
すずしい緑蔭の田舎をすぎ
いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでいる。
ああ蹄の音もかつかつとして
私はうつつにうつつを追ふ
きれいな婦人よ
旅館の花ざかりなる軒にくるまで
私をゆり起してくださるな。
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[hs-a47] 閑雅な食慾 – 顔
ねぼけた桜の咲くころ
白いぼんやりした顔がうかんで
窓で見ている。
ふるいふるい記憶のかげで
どこかの波止場で逢つたやうだが
菫の病欝の匂ひがする
外光のきらきらする硝子窓から
ああ遠く消えてしまつた 虹のやうに。
私はひとつの憂ひを知る
生涯のうす暗い隅を通つて
ふたたび永遠にかへつて来ない。
[it-k159] 新しきインクの匂ひ
新しきインクの匂ひ、
目に沁むもかなしや。
いつか庭の青めり。
[st-w07] 一 秋の思 – 傘のうち
二人してさす一張の
傘に姿をつゝむとも
情の雨のふりしきり
かわく間もなきたもとかな
顔と顔とをうちよせて
あゆむとすればなつかしや
梅花の油黒髪の
乱れて匂ふ傘のうち
恋の一雨ぬれまさり
ぬれてこひしき夢の間や
染めてぞ燃ゆる紅絹うらの
雨になやめる足まとひ
歌ふをきけば梅川よ
しばし情を捨てよかし
いづこも恋に戯れて
それ忠兵衛の夢がたり
こひしき雨よふらばふれ
秋の入日の照りそひて
傘の涙を乾さぬ間に
手に手をとりて行きて帰らじ