[hs-t50] 見知らぬ犬 – 山に登る

旅よりある女に贈る

山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでいた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれている、
おれは小石をひろつて口にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいていた。

おれはいまでも、お前のことを思つているのだ。

[hs-a29] さびしい青猫 – 憂欝な風景

猫のやうに憂欝な景色である
さびしい風船はまつすぐに昇つてゆき
りんねるを着た人物がちらちらと居るではないか。
もうとつくにながい間
だれもこんな波止場を思つてみやしない。
さうして荷揚げ機械のばうぜんとしている海角から
いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた。
そのうへ帆船には綿が積まれて
それが沖の方でむくむくと考へこんでいるではないか。
なんと言ひやうもない
身の毛もよだち ぞつとするやうな思ひ出ばかりだ。
ああ神よ もうとりかへすすべもない
さうしてこんなむしばんだ回想から いつも幼な児のやうに泣いて居よう。

[st-w19] 二 六人の処女 – おさよ

潮さみしき荒磯の
巌陰われは生れけり

あしたゆふべの白駒と
故郷遠きものおもひ

をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの

げに狂はしの身なるべき
この年までの処女とは

うれひは深く手もたゆく
むすぼほれたるわが思

流れて熱きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ

乱れてものに狂ひよる
心を笛の音に吹かん

笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十の指

音にこそ渇け口唇の
笛を尋ぬる風情あり

はげしく深きためいきに
笛の小竹や曇るらん

髪は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気息を聴け

力をこめし一ふしに
黄楊のさし櫛落ちてけり

吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙

短き笛の節の間も
長き思のなからずや

七つの情声を得て
音をこそきかめ歌神も

われ喜を吹くときは
鳥も梢に音をとゞめ

怒をわれの吹くときは
瀬を行く魚も淵にあり

われ哀を吹くときは
獅子も涙をそゝぐらむ

われ楽を吹くときは
虫も鳴く音をやめつらむ

愛のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち帰り

悪をわれの吹くときは
散り行く花も止りて

慾の思を吹くときは
心の闇の響あり

うたへ浮世の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ

くるしむなかれ吾友よ
しばしは笛の音に帰れ

落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を