[hs-t39] くさつた蛤 – 春の実体

かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、
春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
桜のはなをみてあれば、
桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、
やなぎの枝にも、もちろんなり、
たとへば蛾蝶のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、
それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ、瞳にもみえざる、
このかすかな卵のかたちは楕円形にして、
それがいたるところに押しあひへしあひ、
空気中いつぱいにひろがり、
ふくらみきつたごむまりのやうに固くなつているのだ、
よくよく指のさきでつついてみたまへ、
春といふものの実体がおよそこのへんにある。

[hs-a08] 幻の寝台 – 月夜

重たいおほきな羽をばたばたして
ああ なんといふ弱弱しい心臓の所有者だ。
花瓦斯のやうな明るい月夜に
白くながれてゆく生物の群をみよ
そのしづかな方角をみよ
この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ
あかるい花瓦斯のやうな月夜に
ああ なんといふ悲しげな いじらしい蝶類の騒擾だ。

[st-w57] 四 深林の逍遥、其他 – 天馬 鶏

花によりそふ鶏の
夫よ妻鳥よ燕子花
いづれあやめとわきがたく
さも似つかしき風情あり

姿やさしき牝鶏の
かたちを恥づるこゝろして
花に隠るゝありさまに
品かはりたる夫鳥や

雄々しくたけき雄鶏の
とさかの色も艶にして
黄なる口觜脚蹴爪
尾はしだり尾のなが/\し

問ふても見まし誰がために
よそほひありく夫鳥よ
妻守るためのかざりにと
いひたげなるぞいじらしき

画にこそかけれ花鳥の
それにも通ふ一つがひ
霜に侘寝の朝ぼらけ
雨に入日の夕まぐれ

空に一つの明星の
闇行く水に動くとき
日を迎へんと鶏の
夜の使を音にぞ鳴く

露けき朝の明けて行く
空のながめを誰か知る
燃ゆるがごとき紅の
雲のゆくへを誰か知る

闇もこれより隣なる
声ふりあげて鳴くときは
ひとの長眠のみなめざめ
夜は日に通ふ夢まくら

明けはなれたり夜はすでに
いざ妻鳥と巣を出でて
餌をあさらんと野に行けば
あなあやにくのものを見き

見しらぬ鶏の音も高に
あしたの空に鳴き渡り
草かき分けて来るはなぞ
妻恋ふらしや妻鳥を

ねたしや露に羽ぬれて
朝日にうつる影見れば
雄鶏に惜しき白妙の
雲をあざむくばかりなり

力あるらし声たけき
敵のさまを惧れてか
声色あるさまに羞じてかや
妻鳥は花に隠れけり

かくと見るより堪へかねて
背をや高めし夫鳥は
羽がきも荒く飛び走り
蹴爪に土をかき狂ふ

筆毛のさきも逆立ちて
血潮にまじる眼のひかり
二つの鶏のすがたこそ
是おそろしき風情なれ

妻鳥は花を馳け出でて
争闘分くるひまもなみ
たがひに蹴合ふ蹴爪には
火焔もちるとうたがはる

蹴るや左眼の的それて
羽に血しほの夫鳥は
敵の右眼をめざしつゝ
爪も折れよと蹴返しぬ

蹴られて落つるくれないの
血潮の花も地に染みて
二つの鶏の目もくるひ
たがひにひるむ風情なし

そこに声あり涙あり
争ひ狂ふ四つの羽
血潮に滑りし夫鳥の
あな仆れけん声高し

一声長く悲鳴して
あとに仆るゝ夫鳥の
羽に血潮の朱に染み
あたりにさける花紅し

あゝあゝ熱き涙かな
あるに甲斐なき妻鳥は
せめて一声鳴けかしと
屍に嘆くさまあはれ

なにとは知らぬかなしみの
いつか恐怖と変りきて
思ひ乱れて音をのみぞ
鳴くや妻鳥の心なく

我を恋ふらし音にたてて
姿も色もなつかしき
花のかたちと思ひきや
かなしき敵とならんとは

花にもつるゝ蝶あるを
鳥に縁のなからめや
おそろしきかな其の心
なつかしきかな其の情

紅に染みたる草見れば
鳥の命のもろきかな
火よりも燃ゆる恋見れば
敵のこゝろのうれしやな

見よ動きゆく大空の
照る日も雲に薄らぎて
花に色なく風吹けば
野はさびしくも変りけり

かなしこひしの夫鳥の
冷えまさりゆく其姿
たよりと思ふ一ふしの
いづれ妻鳥の身の末ぞ

恐怖を抱く母と子が
よりそふごとくかの敵に
なにとはなしに身をよする
妻鳥のこゝろあはれなれ

あないたましのながめかな
さきの楽しき花ちりて
空色暗く一彩毛の
雲にかなしき野のけしき

生きてかへらぬ鳥はいざ
夫か妻鳥か燕子花
いづれあやめを踏み分けて
野末を帰る二羽の鶏

[st-w10] 一 秋の思 – 秋風の歌

さびしさはいつともわかぬ山里に
尾花みだれて秋かぜぞふく
しづかにきたる秋風の
西の海より吹き起り
舞ひたちさわぐ白雲の
飛びて行くへも見ゆるかな

暮影高く秋は黄の
桐の梢の琴の音に
そのおとなひを聞くときは
風のきたると知られけり

ゆふべ西風吹き落ちて
あさ秋の葉の窓に入り
あさ秋風の吹きよせて
ゆふべの鶉巣に隠る

ふりさけ見れば青山も
色はもみじに染めかへて
霜葉をかへす秋風の
空の明鏡にあらはれぬ

清しいかなや西風の
まづ秋の葉を吹けるとき
さびしいかなや秋風の
かのもみじ葉にきたるとき

道を伝ふる婆羅門の
西に東に散るごとく
吹き漂蕩す秋風に
飄り行く木の葉かな

朝羽うちふる鷲鷹の
明闇天をゆくごとく
いたくも吹ける秋風の
羽に声あり力あり

見ればかしこし西風の
山の木の葉をはらふとき
悲しいかなや秋風の
秋の百葉を落すとき

人は利剣を振へども
げにかぞふればかぎりあり
舌は時世をのゝしるも
声はたちまち滅ぶめり

高くも烈し野も山も
息吹まどはす秋風よ
世をかれ/″\となすまでは
吹きも休むべきけはひなし

あゝうらさびし天地の
壷の中なる秋の日や
落葉と共に飄る
風の行衛を誰か知る