[hs-t39] くさつた蛤 – 春の実体

かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、
春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
桜のはなをみてあれば、
桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、
やなぎの枝にも、もちろんなり、
たとへば蛾蝶のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、
それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ、瞳にもみえざる、
このかすかな卵のかたちは楕円形にして、
それがいたるところに押しあひへしあひ、
空気中いつぱいにひろがり、
ふくらみきつたごむまりのやうに固くなつているのだ、
よくよく指のさきでつついてみたまへ、
春といふものの実体がおよそこのへんにある。

[hs-t55] 長詩二篇 – 雲雀の巣

おれはよにも悲しい心を抱いて故郷の河原を歩いた。
河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えていた。
その低い砂山の蔭には利根川がながれている。ぬすびとのやうに暗くやるせなく流れている、
おれはじつと河原にうづくまつていた。
おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと風にうごいていた。
おれはあるいやなことをかんがへこんでいる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれはぐつたり汗ばんでいる。
あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。
干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いている。
おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
いとけなく育くまれるものの愛に媚びる感覚が、あきらかにおれの心にかんじられた。
おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
おれはまた親鳥のやうに頚をのばして巣の中をのぞいた。
巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
かぼそい植物の繊毛に触れるやうな、たとへやうもなく DELICATE の哀傷が、影のやうに神経の末梢をかすめて行つた。
巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびしげに光つていた。
わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
死にかかつた犬をみるときのやうな歯がゆい感覚が、おれの心の底にわきあがつた。
かういふときの人間の感覚の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそれる心は罪を生む心のさきがけである。
おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
つめたい汁のやうなものが感じられた、
そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液体がじくじくと流れているのをかんじた。
卵がやぶれた、
野蛮な人間の指が、むざんにも繊細なものを押しつぶしたのだ。
鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれていた。

いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛すべき本能のあらはれ。
いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
おれは卵をやぶつた。
愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
くらい不愉快なおこなひをした。
おれは陰欝な顔をして地面をながめつめた。
地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいていた。
ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いている。
なまぐさい春のにほひがする。
おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。
人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
人間が人間の生殖器を醜悪にかんずること。
あるとき人間が馬のやうに見えること。
人間が人間の愛にうらぎりすること。
人間が人間をきらふこと。
ああ、厭人病者。
ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居た。
それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
心が愛するものを肉体で愛することの出来ないといふのは、なんたる邪悪の思想であらう。なんたる醜悪の病気であらう。
おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすらもない。
ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
おれはときどき、すべての人々から脱れて孤独になる。そしておれの心は、すべての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
おれはいつでも、人気のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのがすきだ。
遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷の公園地をあるくのがすきだ。
ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
おれはくるしくなる。
おれはさびしくなる。
心で愛するものを、なにゆえに肉体で愛することができないのか。
おれは懺悔する。
懺悔する。
おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。

ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いている。
河原蓬の根がぼうぼうとひろがつている。
利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れている。
あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。

おれはいじらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。

[hs-t05] 竹とその哀傷 – すえたる菊

その菊は酢え、
その菊はいたみしたたる、
あはれあれ霜つきはじめ、
わがぷらちなの手はしなへ、
するどく指をとがらして、
菊をつまむとねがふより、
その菊をばつむことなかれとて、
かがやく天の一方に、
菊は病み、
饐えたる菊はいたみたる。

[hs-t20] 雲雀料理 – 焦心

霜ふりてすこしつめたき朝を、
手に雲雀料理をささげつつ歩みゆく少女あり、
そのとき並木にもたれ、
白粉もてぬられたる女のほそき指と指との隙間をよくよく窺ひ、
このうまき雲雀料理をば盗み喰べんと欲して、
しきりにも焦心し、
あるひとのごときはあまりに焦心し、まつたく合掌せるにおよべり。

[hs-a06] 幻の寝台 – その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな青い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいている様子はたまらない
ああ その手の上に接吻がしたい
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
愛をもとめる肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚のうへに
かるく爪先をふれ
かるく爪でひつかき
かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき
そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指
おすましで意地悪のひとさし指
卑怯で快活なこゆびのいたづら
親指の肥え太つたうつくしさと その暴虐なる野蛮性
ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき
すつぽりと口にふくんでしやぶつていたい いつまでたつてもしやぶつていたい
その手の甲はわつぷるのふくらみで
その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。