[st-w55] 四 深林の逍遥、其他 – 天馬 雄馬

あな天雲にともなはれ
緑の髪をうちふるひ
雄馬は人に随ひて
箱根の嶺を下りけり
胸は踊りて八百潮の
かの蒼溟に湧くごとく
喉はよせくる春涛を
飲めども渇く風情あり
目はひさかたの朝の星
睫毛は草の浅緑
うるほひ光る眼瞳には
千里の外もほがらにて
東に照らし西に入る
天つみそらを渡る日の
朝日夕日の行衛さへ
雲の絶間に極むらん
二つの耳をたとふれば
いと幽なる朝風に
そよげる草の葉のごとく
蹄の音をたとふれば
紫金の色のやきがねを
高くも叩く響あり
狂へば長き鬣の
うちふりうちふる乱れ髪
燃えてはめぐる血の潮の
流れて踊る春の海
噴く紅の光には
火炎の気息もあらだちて
深くも遠き嘶声は
大神の住む梁の
塵を動かす力あり
あゝ朝鳥の音をきゝて
富士の高根の雪に鳴き
夕つげわたる鳥の音に
木曽の御岳の巌を越え
かの青雲に嘶きて
天より天の電影の
光の末に隠るべき
雄馬の身にてありながら
なさけもあつくなつかしき
主人のあとをとめくれば
箱根も遠し三井寺や
日も暖に花深く
さゝなみ青き湖の
岸の此彼草を行く
天の雄馬のすがたをば
誰かは思ひ誰か知る
しらずや人の天雲に
歩むためしはあるものを
天馬の下りて大土に
歩むためしのなからめや
見よ藤の葉の影深く
岸の若草香にいでて
春花に酔ふ蝶の夢
そのかげを履む雄馬には
一つの紅き春花に
見えざる神の宿あり
一つうつろふ野の色に
つきせぬ天のうれひあり
嗚呼鷲鷹の飛ぶ道に
高く懸れる大空の
無限の絃に触れて鳴り
男神女神に戯れて
照る日の影の雲に鳴き
空に流るゝ満潮を
飲みつくすとも渇くべき
天馬よ汝が身を持ちて
鳥のきて啼く鳰の海
花橘の蔭を履む
その姿こそ雄々しけれ

[st-w39] 四 深林の逍遥、其他 – 四

ゆびをりくればいつたびも
かはれる雲をながむるに
白きは黄なりなにをかも
もつ筆にせむ色彩の
いつしか淡く茶を帯びて
雲くれないとかはりけり
あゝゆふまぐれわれひとり
たどる林もひらけきて
いと静かなる湖の
岸辺にさける花躑躅
うき雲ゆけばかげ見えて
水に沈める春の日や
それ紅の色染めて
雲紫となりぬれば
かげさへあかき水鳥の
春のみづうみ岸の草
深き林や花つゝじ
迷ふひとりのわがみだに
深紫の紅の
彩にうつろふ夕まぐれ

[st-w20] 二 六人の処女 – おくめ

こひしきまゝに家を出で
こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと来て見れば
千鳥鳴くなり夕まぐれ

こひには親も捨てはてて
やむよしもなき胸の火や
鬢の毛を吹く河風よ
せめてあはれと思へかし

河波暗く瀬を早み
流れて巌に砕くるも
君を思へば絶間なき
恋の火炎に乾くべし

きのふの雨の小休なく
水嵩や高くまさるとも
よひ/\になくわがこひの
涙の滝におよばじな

しりたまはずやわがこひは
花鳥の絵にあらじかし
空鏡の印象砂の文字
梢の風の音にあらじ

しりたまはずやわがこひは
雄々しき君の手に触れて
嗚呼口紅をその口に
君にうつさでやむべきや

恋は吾身の社にて
君は社の神なれば
君の祭壇の上ならで
なににいのちを捧げまし

砕かば砕け河波よ
われに命はあるものを
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなん

心のみかは手も足も
吾身はすべて火炎なり
思ひ乱れて嗚呼恋の
千筋の髪の波に流るゝ

[st-w17] 二 六人の処女 – おえふ

処女ぞ経ぬるおほかたの
われは夢路を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河をながむれば

水静かなる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影に
われは処女となりにけり

都鳥浮く大川に
流れてそゝぐ川添の
白菫さく若草に
夢多かりし吾身かな

雲むらさきの九重の
大宮内につかへして
清涼殿の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫め涛を刻り
霞をうかべ日をまねく
玉の台の欄干に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀くさまを目にも見て
ときめきたまふさま/″\の
ひとりのころもの香をかげり

きらめき初むる暁星の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名の夕暮に消えて行く
秀でし人の末路も見き

春しづかなる御園生の
花に隠れて人を哭き
秋のひかりの窓に倚り
夕雲とほき友を恋ふ

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門を出で
けふ江戸川に来て見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静かにて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世を経れば
若き命に堪へかねて
岸のほとりの草を藉き
微笑みて泣く吾身かな