[hs-a15] 憂欝なる桜 – 黒い風琴

おるがんをお弾きなさい 女のひとよ
あなたは黒い着物をきて
おるがんの前に坐りなさい
あなたの指はおるがんを這ふのです
かるく やさしく しめやかに 雪のふつている音のやうに
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。

だれがそこで唱つているの
だれがそこでしんみりと聴いているの
ああこのまつ黒な憂欝の闇のなかで
べつたりと壁にすひついて
おそろしい巨大の風琴を弾くのはだれですか
宗教のはげしい感情 そのふるへ
けいれんするぱいぷおるがん れくれえむ!
お祈りなさい 病気のひとよ
おそろしいことはない おそろしい時間はないのです
お弾きなさい おるがんを
やさしく とうえんに しめやかに
大雪のふりつむときの松葉のやうに
あかるい光彩をなげかけてお弾きなさい
お弾きなさい おるがんを
おるがんをお弾きなさい 女のひとよ。

ああ まつくろのながい着物をきて
しぜんに感情のしづまるまで
あなたはおほきな黒い風琴をお弾きなさい
おそろしい暗闇の壁の中で
あなたは熱心に身をなげかける
あなた!
ああ なんといふはげしく陰欝なる感情のけいれんよ。

[hs-a14] 憂欝なる桜 – 夢にみる空家の庭の秘密

その空家の庭に生えこむものは松の木の類
びはの木 桃の木 まきの木 さざんか さくらの類
さかんな樹木 あたりにひろがる樹木の枝
またそのむらがる枝の葉かげに ぞくぞくと繁茂するところの植物
およそ しだ わらび ぜんまい もうせんごけの類
地べたいちめんに重なりあつて這ひまはる
それら青いものの生命
それら青いもののさかんな生活
その空家の庭はいつも植物の日影になつて薄暗い
ただかすかにながれるものは一筋の小川のみづ
夜も昼もさよさよと悲しくひくくながれる水の音
またじめじめとした垣根のあたり
なめくじ へび かへる とかげ類のぬたぬたとした気味わるいすがたをみる。
さうしてこの幽邃な世界のうへに
夜は青じろい月の光がてらしている
月の光は前栽の植込からしつとりとながれこむ。
あはれにしめやかな この深夜のふけてゆく思ひに心をかたむけ
わたしの心は垣根にもたれて横笛を吹きすさぶ
ああ このいろいろのもののかくされた秘密の生活
かぎりなく美しい影と 不思議なすがたの重なりあふところの世界
月光の中にうかびいづる羊歯 わらび 松の木の枝
なめくじ へび とかげ類の無気味な生活
ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家の庭の秘密と
いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさよ。

[hs-a13] 憂欝なる桜 – 憂欝なる花見

憂欝なる桜が遠くからにほひはじめた
桜の枝はいちめんにひろがつている
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く桜のはなは酢え
桜のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
いまひとびとは帽子をかぶつて外光の下を歩きにでる
さうして日光が遠くにかがやいている
けれども私はこの暗い室内にひとりで坐つて
思ひをはるかなる桜のはなの下によせ
野山にたはむれる青春の男女によせる
ああいかに幸福なる人生がそこにあるか
なんといふよろこびが輝やいていることか
いちめんに枝をひろげた桜の花の下で
わかい娘たちは踊ををどる
娘たちの白くみがいた踊の手足
しなやかにおよげる衣装
ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつていることか
花見のうたごえは横笛のやうにのどかで
かぎりなき憂欝のひびきをもつてきこえる。
いま私の心は涙をもてぬぐはれ
閉じこめたる窓のほとりに力なくすすりなく
ああこのひとつのまづしき心はなにものの生命をもとめ
なにものの影をみつめて泣いているのか
ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで
遠く花見の憂欝なる横笛のひびきをきく。

[hs-a12] 幻の寝台 – 恐ろしく憂欝なる

こんもりとした森の木立のなかで
いちめんに白い蝶類が飛んでいる
むらがる むらがりて飛びめぐる
てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
みどりの葉のあつぼつたい隙間から
ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼
いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ
ああ これはなんといふ憂欝な幻だ
このおもたい手足 おもたい心臓
かぎりなくなやましい物質と物質との重なり
ああ これはなんといふ美しい病気だらう
つかれはてたる神経のなまめかしいたそがれどきに
私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を
つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを
その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに
私の青ざめた屍体のくちびるに
額に 髪に 髪の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに
みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ
むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり
ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集団
ああこの恐ろしい地上の陰影
このなまめかしいまぼろしの森の中に
しだいにひろがつてゆく憂欝の日かげをみつめる
その私の心はばたばたと羽ばたきして
小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ
ああこのたへがたく悩ましい性の感覚
あまりに恐ろしく憂欝なる。

[hs-a11] 幻の寝台 – 蝿の唱歌

春はどこまできたか
春はそこまできて桜の匂ひをかぐはせた
子供たちのさけびは野に山に
はるやま見れば白い浮雲がながれている。
さうして私の心はなみだをおぼえる
いつもおとなしくひとりで遊んでいる私のこころだ
この心はさびしい
この心はわかき少年の昔より 私のいのちに日影をおとした
しだいにおほきくなる孤独の日かげ
おそろしい憂欝の日かげはひろがる。
いま室内にひとりで坐つて
暮れゆくたましひの日かげをみつめる
そのためいきはさびしくして
とどまる蝿のやうに力がない
しづかに暮れてゆく春の夕日の中を
私のいのちは力なくさまよひあるき
私のいのちは窓の硝子にとどまりて
たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた。

[hs-a10] 幻の寝台 – 野原に寝る

この感情の伸びてゆくありさま
まつすぐに伸びてゆく喬木のやうに
いのちの芽生のぐんぐんとのびる。
そこの青空へもせいのびをすればとどくやうに
せいも高くなり胸はばもひろくなつた。
たいそううららかな春の空気をすひこんで
小鳥たちが喰べものをたべるやうに
愉快で口をひらいてかはゆらしく
どんなにいのちの芽生たちが伸びてゆくことか。
草木は草木でいつさいに
ああ どんなにぐんぐんと伸びてゆくことか。
ひろびろとした野原にねころんで
まことに愉快な夢をみつづけた。

[hs-a09] 幻の寝台 – 春の感情

ふらんすからくる煙草のやにのにほひのやうだ
そのにほひをかいでいると気がうつとりとする
うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情
つめたい銀いろの小鳥のなきごえ
春がくるときのよろこびは
あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのやうだ
ふるへる めづらしい野路のくさばな
おもたく雨にぬれた空気の中にひろがるひとつの音色
なやましき女のなきごえはそこにもきこえて
春はしつとりとふくらんでくるやうだ。
春としなれば山奥のふかい森の中でも
くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに
私のたましひはぞくぞくとして菌を吹き出す
たとへば毒だけ へびだけ べにひめじのやうなもの
かかる菌の類はあやしげなる色香をはなちて
ひねもすさびしげに匂つている。

春がくる 春がくる
春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ
そこにもここにも
ぞくぞくとしてふきだす菌 毒だけ
また薮かげに生えてほのかに光るべにひめじの類。

[hs-a08] 幻の寝台 – 月夜

重たいおほきな羽をばたばたして
ああ なんといふ弱弱しい心臓の所有者だ。
花瓦斯のやうな明るい月夜に
白くながれてゆく生物の群をみよ
そのしづかな方角をみよ
この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ
あかるい花瓦斯のやうな月夜に
ああ なんといふ悲しげな いじらしい蝶類の騒擾だ。

[hs-a07] 幻の寝台 – 青猫

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ桜の並木
そこにも無数の雀がさへづつているではないか。

ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれている
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

[hs-a06] 幻の寝台 – その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな青い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいている様子はたまらない
ああ その手の上に接吻がしたい
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
愛をもとめる肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚のうへに
かるく爪先をふれ
かるく爪でひつかき
かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき
そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指
おすましで意地悪のひとさし指
卑怯で快活なこゆびのいたづら
親指の肥え太つたうつくしさと その暴虐なる野蛮性
ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき
すつぽりと口にふくんでしやぶつていたい いつまでたつてもしやぶつていたい
その手の甲はわつぷるのふくらみで
その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。