旅よりある女に贈る
山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでいた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれている、
おれは小石をひろつて口にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいていた。
おれはいまでも、お前のことを思つているのだ。
旅よりある女に贈る
山の山頂にきれいな草むらがある、
その上でわたしたちは寝ころんでいた。
眼をあげてとほい麓の方を眺めると、
いちめんにひろびろとした海の景色のやうにおもはれた。
空には風がながれている、
おれは小石をひろつて口にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいていた。
おれはいまでも、お前のことを思つているのだ。
蛙よ、
青いすすきやよしの生えてる中で、
蛙は白くふくらんでいるやうだ、
雨のいつぱいにふる夕景に、
ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙。
まつくらの地面をたたきつける、
今夜は雨や風のはげしい晩だ、
つめたい草の葉つぱの上でも、
ほつと息をすひこむ蛙、
ぎよ、ぎよ、ぎよ、ぎよ、と鳴く蛙。
蛙よ、
わたしの心はお前から遠くはなれて居ない、
わたしは手に灯灯をもつて、
くらい庭の面を眺めて居た、
雨にしほるる草木の葉を、つかれた心もちで眺めて居た。
まづしい、さみしい町の裏通りで、
青樹がほそほそと生えていた。
わたしは愛をもとめている、
わたしを愛する心のまづしい乙女を求めている、
そのひとの手は青い梢の上でふるへている、
わたしの愛を求めるために、いつも高いところでやさしい感情にふるへている。
わたしは遠い遠い街道で乞食をした、
みじめにも飢えた心が腐つた葱や肉のにほひを嗅いで涙をながした、
うらぶれはてた乞食の心でいつも町の裏通りを歩きまはつた。
愛をもとめる心は、かなしい孤独の長い長いつかれの後にきたる、
それはなつかしい、おほきな海のやうな感情である。
道ばたのやせ地に生えた青樹の梢で、
ちつぽけな葉つぱがひらひらと風にひるがへつていた。
この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
みすぼらしい、後足でびつこをひいている不具の犬のかげだ。
ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
わたしのゆく道路の方角では、
長屋の家根がべらべらと風にふかれている、
道ばたの陰気な空地では、
ひからびた草の葉つぱがしなしなとほそくうごいて居る。
ああ、わたしはどこへ行くのか知らない、
おほきな、いきもののやうな月が、ぼんやりと行手に浮んでいる、
さうして背後のさびしい往来では、
犬のほそながい尻尾の先が地べたの上をひきずつて居る。
ああ、どこまでも、どこまでも、
この見もしらぬ犬が私のあとをついてくる、
きたならしい地べたを這ひまはつて、
わたしの背後で後足をひきずつている病気の犬だ、
とほく、ながく、かなしげにおびえながら、
さびしい空の月に向つて遠白く吠えるふしあはせの犬のかげだ。
さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話していよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。
わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれていた。
自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰欝にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見ているのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。
よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。
あいつはいつも歪んだ顔をして、
窓のそばに突つ立つている、
白いさくらが咲く頃になると、
あいつはまた地面の底から、
むぐらもちのやうに這ひ出してくる、
じつと足音をぬすみながら、
あいつが窓にしのびこんだところで、
おれは早取写真にうつした。
ぼんやりした光線のかげで、
白つぽけた乾板をすかして見たら、
なにかの影のやうに薄く写つていた。
おれのくびから上だけが、
おいらん草のやうにふるへていた。
はげしいむし歯のいたみから、
ふくれあがつた頬つぺたをかかへながら、
わたしは棗の木の下を掘つていた、
なにかの草の種を蒔かうとして、
きやしやの指を泥だらけにしながら、
つめたい地べたを堀つくりかへした、
ああ、わたしはそれをおぼえている、
うすらさむい日のくれがたに、
まあたらしい穴の下で、
ちろ、ちろ、とみみずがうごいていた、
そのとき低い建物のうしろから、
まつしろい女の耳を、
つるつるとなでるやうに月があがつた、
月があがつた。
幼童思慕詩篇
椅子の下にねむれるひとは、
おほいなる家をつくれるひとの子供らか。
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。
地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつている、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。
八月は祈祷、
魚鳥遠くに消え去り、
桔梗いろおとろへ、
しだいにおとろへ、
わが心いたくおとろへ、
悲しみ樹蔭をいでず、
手に聖書は銀となる。