[st-w56] 四 深林の逍遥、其他 – 天馬 牝馬

青波深きみづうみの
岸のほとりに生れてし
天の牝馬は東なる
かの陸奥の野に住めり
霞に霑ひ風に擦れ
音もわびしき枯くさの
すゝき尾花にまねかれて
荒野に嘆く牝馬かな
誰か燕の声を聞き
たのしきうたを耳にして
日も暖かに花深き
西も空をば慕はざる
誰か秋鳴くかりがねの
かなしき歌に耳たてて
ふるさとさむき遠天の
雲の行衛を慕はざる
白き羚羊に見まほしく
透きては深く柔軟き
眼の色のうるほひは
吾が古里を忍べばか
蹄も薄く肩痩せて
四つの脚さへ細りゆき
その鬣の艶なきは
荒野の空に嘆けばか
春は名取の若草や
病める力に石を引き
夏は国分の嶺を越え
牝馬にあまる塩を負ふ
秋は広瀬の川添の
紅葉の蔭にむちうたれ
冬は野末に日も暮れて
みぞれの道の泥に饑ゆ
鶴よみそらの雲に飽き
朝の霞の香に酔ひて
春の光の空を飛ぶ
羽翼の色の嫉きかな
獅子よさみしき野に隠れ
道なき森に驚きて
あけぼの露にふみ迷ふ
鋭き爪のこひしやな
鹿よ秋山妻恋に
黄葉のかげを踏みわけて
谷間の水に喘ぎよる
眼睛の色のやさしやな
人をつめたくあじきなく
思ひとりしは幾歳か
命を薄くあさましく
思ひ初めしは身を責むる
強き軛に嘆き侘び
花に涙をそゝぐより
悲しいかなや春の野に
湧ける泉を飲み干すも
天の牝馬のかぎりなき
渇ける口をなにかせむ
悲しいかなや行く水の
岸の柳の樹の蔭の
かの新草の多くとも
饑えたる喉をいかにせむ
身は塵埃の八重葎
しげれる宿にうまるれど
かなしや地の青草は
その慰藉にあらじかし
あゝ天雲や天雲や
塵の是世にこれやこの
轡も折れよ世も捨てよ
狂ひもいでよ軛さへ
噛み砕けとぞ祈るなる
牝馬のこゝろ哀なり
尽きせぬ草のありといふ
天つみそらの慕はしや
渇かぬ水の湧くといふ
天の泉のなつかしや
せまき厩を捨てはてて
空を行くべき馬の身の
心ばかりははやれども
病みては零つる涙のみ
草に生れて草に泣く
姿やさしき天の馬
うき世のものにことならで
消ゆる命のもろきかな
散りてはかなき柳葉の
そのすがたにも似たりけり
波に消え行く淡雪の
そのすがたにも似たりけり
げに世の常の馬ならば
かくばかりなる悲嘆に
身の苦悶を恨み侘び
声ふりあげて嘶かん
乱れて長き鬣の
この世かの世の別れにも
心ばかりは静和なる
深く悲しき声きけば
あゝ幽遠なる気息に
天のうれひを紫の
野末の花に吹き残す
世の名残こそはかなけれ

[st-w33] 三 生のあけぼの – 二つの声

たれか聞くらん朝の声
眠と夢を破りいで
彩なす雲にうちのりて
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて
東の空に光あり
そこに時あり始あり
そこに道あり力あり
そこに色あり詞あり
そこに声あり命あり
そこに名ありとうたひつゝ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
光のうちに朝ぞ隠るゝ

[st-w21] 二 六人の処女 – おつた

花仄見ゆる春の夜の
すがたに似たる吾命
朧々に父母は
二つの影と消えうせて
世に孤児の吾身こそ
影より出でし影なれや
たすけもあらぬ今は身は
若き聖に救はれて
人なつかしき前髪の
処女とこそはなりにけれ

若き聖ののたまはく
時をし待たむ君ならば
かの柿の実をとるなかれ
かくいひたまふうれしさに
ことしの秋もはや深し
まづその秋を見よやとて
聖に柿をすゝむれば
その口唇にふれたまひ
かくも色よき柿ならば
などかは早くわれに告げこぬ

若き聖ののたまはく
人の命の惜しからば
嗚呼かの酒を飲むなかれ
かくいひたまふうれしさに
酒なぐさめの一つなり
まづその春を見よやとて
聖に酒をすゝむれば
夢の心地に酔ひたまひ
かくも楽しき酒ならば
などかは早くわれに告げこぬ

若き聖ののたまはく
道行き急ぐ君ならば
迷ひの歌をきくなかれ
かくいひたまふうれしさに
歌も心の姿なり
まづその声をきけやとて
一ふしうたひいでければ
聖は魂も酔ひたまひ
かくも楽しき歌ならば
などかは早くわれに告げこぬ

若き聖ののたまはく
まことをさぐる吾身なり
道の迷となるなかれ
かくいひたまふうれしさに
情も道の一つなり
かゝる思を見よやとて
わがこの胸に指ざせば
聖は早く恋ひわたり
かくも楽しき恋ならば
などかは早くわれに告げこぬ

それ秋の日の夕まぐれ
そゞろあるきのこゝろなく
ふと目に入るを手にとれば
雪より白き小石なり
若き聖ののたまはく
智恵の石とやこれぞこの
あまりに惜しき色なれば
人に隠して今も放たじ