[hs-a51] 艶めける霊魂 – 花やかなる情緒

深夜のしづかな野道のほとりで
さびしい電灯が光つている
さびしい風が吹きながれる
このあたりの山には樹木が多く
楢、桧、山毛欅、樫、欅の類
枝葉もしげく欝蒼とこもつている。

そこやかしこの暗い森から
また遥かなる山山の麓の方から
さびしい弧灯をめあてとして
むらがりつどへる蛾をみる。
蝗のおそろしい群のやうに
光にうづまき くるめき 押しあひ死にあふ小虫の群団。

人里はなれた山の奥にも
夜ふけてかがやく弧灯をゆめむ。
さびしい花やかな情緒をゆめむ。
さびしい花やかな灯火の奥に
ふしぎな性の悶えをかんじて
重たい翼をばたばたさせる
かすてらのやうな蛾をみる
あはれな 孤独の あこがれきつたいのちをみる。

いのちは光をさして飛びかひ
光の周囲にむらがり死ぬ
ああこの賑はしく 艶めかしげなる春夜の動静
露つぽい空気の中で
花やかな弧灯は眠り 灯火はあたりの自然にながれている。
ながれている哀傷の夢の影のふかいところで
私はときがたい神秘をおもふ
万有の 生命の 本能の 孤独なる
永遠に永遠に孤独なる 情緒のあまりに花やかなる。

[hs-a50] 艶めける霊魂 – 艶めける霊魂

そよげる
やはらかい草の影から
花やかに いきいきと目をさましてくる情慾
燃えあがるやうに
たのしく
うれしく
こころ春めく春の感情。

つかれた生涯のあじない昼にも
孤独の暗い部屋の中にも
しぜんとやはらかく そよげる窓の光はきたる
いきほひたかぶる機能の昂進
そは世に艶めけるおもひのかぎりだ
勇気にあふれる希望のすべてだ。

ああこのわかやげる思ひこそは
春日にとける雪のやうだ
やさしく芽ぐみ
しぜんに感ずるぬくみのやうだ
たのしく
うれしく
こころときめく性の躍動。

とざせる思想の底を割つて
しづかにながれるいのちをかんずる
あまりに憂欝のなやみふかい沼の底から
わづかに水のぬくめるやうに
さしぐみ
はじらひ
ためらひきたれる春をかんずる。

[hs-a49] 閑雅な食慾 – 自然の背後に隠れて居る

僕等が薮のかげを通つたとき
まつくらの地面におよいでいる
およおよとする象像をみた
僕等は月の影をみたのだ。
僕等が草叢をすぎたとき
さびしい葉ずれの隙間から鳴る
そわそわといふ小笛をきいた。
僕等は風の声をみたのだ。

僕等はたよりない子供だから
僕等のあはれな感触では
わづかな現はれた物しか見えはしない。
僕等は遥かの丘の向うで
ひろびろとした自然に住んでる
かくれた万象の密語をきき
見えない生き物の動作をかんじた。

僕等は電光の森かげから
夕闇のくる地平の方から
煙の淡じろい影のやうで
しだいにちかづく巨像をおぼえた
なにかの妖しい相貌に見える
魔物の迫れる恐れをかんじた。

おとなの知らない希有の言葉で
自然は僕等をおびやかした
僕等は葦のやうにふるへながら
さびしい曠野に泣きさけんだ。
「お母ああさん! お母ああさん!」

[hs-a48] 閑雅な食慾 – 白い牡鶏

わたしは田舎の鶏です
まづしい農家の庭に羽ばたきし
垣根をこえて
わたしは乾からびた小虫をついばむ。
ああ この冬の日の陽ざしのかげに
さびしく乾地の草をついばむ
わたしは白つぽい病気の牡鶏
あはれな かなしい 羽ばたきをする生物です。

私はかなしい田舎の鶏
家根をこえ
垣根をこえ
墓場をこえて
はるかの野末にふるへさけぶ
ああ私はこはれた日時計 田舎の白つぽい牡鶏です。

[hs-a47] 閑雅な食慾 – 顔

ねぼけた桜の咲くころ
白いぼんやりした顔がうかんで
窓で見ている。
ふるいふるい記憶のかげで
どこかの波止場で逢つたやうだが
菫の病欝の匂ひがする
外光のきらきらする硝子窓から
ああ遠く消えてしまつた 虹のやうに。

私はひとつの憂ひを知る
生涯のうす暗い隅を通つて
ふたたび永遠にかへつて来ない。

[hs-a46] 閑雅な食慾 – 遺伝

人家は地面にへたばつて
おほきな蜘蛛のやうに眠つている。
さびしいまつ暗な自然の中で
動物は恐れにふるへ
なにかの夢魔におびやかされ
かなしく青ざめて吠えています。
のをあある とをあある やわあ

もろこしの葉は風に吹かれて
さわさわと闇に鳴つてる。
お聴き! しづかにして
道路の向うで吠えている
あれは犬の遠吠だよ。
のをあある とをあある やわあ

「犬は病んでいるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢えているのです。」

遠くの空の微光の方から
ふるへる物象のかげの方から
犬はかれらの敵を眺めた
遺伝の 本能の ふるいふるい記憶のはてに
あはれな先祖のすがたをかんじた。

犬のこころは恐れに青ざめ
夜陰の道路にながく吠える。
のをあある とをあある のをあある やわああ

「犬は病んでいるの? お母あさん。」
「いいえ子供
犬は飢えているのですよ。」

[hs-a45] 閑雅な食慾 – 悪い季節

薄暮の疲労した季節がきた
どこでも室房はうす暗く
慣習のながい疲れをかんずるやうだ
雨は往来にびしよびしよして
貧乏な長屋が並びている。
こんな季節のながいあひだ
ぼくの生活は落魄して
ひどく窮乏になつてしまつた
家具は一隅に投げ倒され
冬の 埃の 薄命の日ざしのなかで
蝿はぶむぶむと窓に飛んでる。

こんな季節のつづく間
ぼくのさびしい訪間者は
老年の よぼよぼした いつも白粉くさい貴婦人です。
ああ彼女こそ僕の昔の恋人
古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影だ。

こんな白雨のふつてる間
どこにも新しい信仰はありはしない
詩人はありきたりの思想をうたひ
民衆のふるい伝統は畳の上になやんでいる
ああこの厭やな天気
日ざしの鈍い季節。

ぼくの感情を燃え爛すやうな構想は
ああもう どこにだつてありはしない。

[hs-a44] 閑雅な食慾 – 囀鳥

軟風のふく日
暗欝な思惟にしづみながら
しづかな木立の奥で落葉する路を歩いていた。
天気はさつぱりと晴れて
赤松の梢にたかく囀鳥の騒ぐをみた
愉快な小鳥は胸をはつて
ふたたび情緒の調子をかへた。
ああ 過去の私の欝陶しい瞑想から 環境から
どうしてけふの情感をひるがへさう
かつてなにものすら失つていない
人生においてすら。
人生においてすら 私の失つたのは快適だけだ
ああしかし あまりにひさしく快適を失つている。

[hs-a43] 閑雅な食慾 – 厭やらしい景物

雨のふる間
眺めは白ぼけて
建物 建物 びたびたにぬれ
さみしい荒廃した田舎をみる
そこに感情をくさらして
かれらは馬のやうにくらしていた。

私は家の壁をめぐり
家の壁に生える苔をみた
かれらの食物は非常にわるく
精神さへも梅雨じみて居る。

雨のながくふる間
私は退屈な田舎に居て
退屈な自然に漂泊している
薄ちやけた幽霊のやうな影をみた。

私は貧乏を見たのです
このびたびたする雨気の中に
ずつくり濡れたる 孤独の 非常に厭やらしいものを見たのです。

[hs-a42] 閑雅な食慾 – 思想は一つの意匠であるか

欝蒼としげつた森林の樹木のかげで
ひとつの思想を歩ませながら
仏は蒼明の自然を感じた
どんな瞑想をもいきいきとさせ
どんな涅槃にも溶け入るやうな
そんな美しい月夜をみた。

「思想は一つの意匠であるか」
仏は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。