[hs-t34] くさつた蛤 – 猫

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでいる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

[hs-t46] さびしい情慾 – さびしい人格

さびしい人格が私の友を呼ぶ、
わが見知らぬ友よ、早くきたれ、
ここの古い椅子に腰をかけて、二人でしづかに話していよう、
なにも悲しむことなく、きみと私でしづかな幸福な日をくらさう、
遠い公園のしづかな噴水の音をきいて居よう、
しづかに、しづかに、二人でかうして抱き合つて居よう、
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて、
母にも父にも知らない孤児の心をむすび合はさう、
ありとあらゆる人間の生活の中で、
おまへと私だけの生活について話し合はう、
まづしいたよりない、二人だけの秘密の生活について、
ああ、その言葉は秋の落葉のやうに、そうそうとして膝の上にも散つてくるではないか。

わたしの胸は、かよわい病気したをさな児の胸のやうだ。
わたしの心は恐れにふるえる、せつない、せつない、熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも、私は高い山の上へ登つて行つた、
けはしい坂路をあふぎながら、虫けらのやうにあこがれて登つて行つた、
山の絶頂に立つたとき、虫けらはさびしい涙をながした。
あふげば、ぼうぼうたる草むらの山頂で、おほきな白つぽい雲がながれていた。

自然はどこでも私を苦しくする、
そして人情は私を陰欝にする、
むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
とある寂しい木蔭に椅子をみつけるのが好きだ、
ぼんやりした心で空を見ているのが好きだ、
ああ、都会の空をとほく悲しくながれてゆく煤煙、
またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめの飛んで行く姿を見るのが好きだ。

よにもさびしい私の人格が、
おほきな声で見知らぬ友をよんで居る、
わたしの卑屈な不思議な人格が、
鴉のやうなみすぼらしい様子をして、
人気のない冬枯れの椅子の片隅にふるえて居る。

[hs-a55] ○ – 軍隊

通行する軍隊の印象

この重量のある機械は
地面をどつしりと圧へつける
地面は強く踏みつけられ
反動し
濛濛とする埃をたてる。
この日中を通つている
巨重の逞ましい機械をみよ
黝鉄の油ぎつた
ものすごい頑固な巨体だ
地面をどつしりと圧へつける
巨きな集団の動力機械だ。
づしり、づしり、ばたり、ばたり
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

この兇逞な機械の行くところ
どこでも風景は褪色し
黄色くなり
日は空に沈欝して
意志は重たく圧倒される。
づしり、づしり、ばたり、ばたり
お一、二、お一、二。

お この重圧する
おほきなまつ黒の集団
浪の押しかへしてくるやうに
重油の濁つた流れの中を
熱した銃身の列が通る
無数の疲れた顔が通る。
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく
お一、二、お一、二。

暗澹とした空の下を
重たい鋼鉄の機械が通る
無数の拡大した瞳孔が通る
それらの瞳孔は熱にひらいて
黄色い風景の恐怖のかげに
空しく力なく彷徨する。
疲労し
困憊し
幻惑する。
お一、二、お一、二
歩調取れえ!

お このおびただしい瞳孔
埃の低迷する道路の上に
かれらは憂欝の日ざしをみる
ま白い幻像の市街をみる
感情の暗く幽囚された。
づしり、づしり、づたり、づたり
ざつく、ざつく、ざつく、ざつく。

いま日中を通行する
黝鉄の凄く油ぎつた
巨重の逞ましい機械をみよ
この兇逞な機械の踏み行くところ
どこでも風景は褪色し
空気は黄ばみ
意志は重たく圧倒される。
づしり、づしり、づたり、づたり
づしり、どたり、ばたり、ばたり。
お一、二、お一、二。

[st-w35] 三 生のあけぼの – 哀歌

中野逍遥をいたむ
『秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴台旧譜盧前柳、風流銷尽二千年』、これ中野逍遥が秋怨十絶の一なり。逍遥字は威卿、小字重太郎、予州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年僅かに二十七にしてうせぬ。逍遥遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を写せしもの、『寄語残月休長嘆、我輩亦是艶生涯』、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。

思君九首     中野逍遥

思君我心傷    思君我容瘁
中夜坐松蔭    露華多似涙

思君我心悄    思君我腸裂
昨夜涕涙流    今朝尽成血

示君錦字詩    寄君鴻文冊
忽覚筆端香    窓外梅花白

為君調綺羅    為君築金屋
中有鴛鴦図    長春夢百禄

贈君名香篋    応記韓寿恩
休将秋扇掩    明月照眉痕

贈君双臂環    宝玉価千金
一鐫不乖約    一題勿変心

訪君過台下    清宵琴響揺
佇門不敢入    恐乱月前調

千里囀金鴬    春風吹緑野
忽発頭屋桃    似君三両朶

嬌影三分月    芳花一朶梅
渾把花月秀    作君玉膚堆

かなしいかなや流れ行く
水になき名をしるすとて
今はた残る歌反古の
ながき愁ひをいかにせむ

かなしいかなやする墨の
いろに染めてし花の木の
君がしらべの歌の音に
薄き命のひゞきあり

かなしいかなや前の世は
みそらにかゝる星の身の
人の命のあさぼらけ
光も見せでうせにしよ

かなしいかなや同じ世に
生れいでたる身を持ちて
友の契りも結ばずに
君は早くもゆけるかな

すゞしき眼つゆを帯び
葡萄のたまとまがふまで
その面影をつたへては
あまりに妬き姿かな

同じ時世に生れきて
同じいのちのあさぼらけ
君からくれないの花は散り
われ命あり八重葎

かなしいかなやうるはしく
さきそめにける花を見よ
いかなればかくとゞまらで
待たで散るらんさける間も

かなしいかなやうるはしき
なさけもこひの花を見よ
いと/\清きそのこひは
消ゆとこそ聞けいと早く

君し花とにあらねども
いな花よりもさらに花
君しこひとにあらねども
いなこひよりもさらにこひ

かなしいかなや人の世に
あまりに惜しき才なれば
病に塵に悲に
死にまでそしりねたまるゝ

かなしいかなやはたとせの
ことばの海のみなれ棹
磯にくだくる高潮の
うれひの花とちりにけり

かなしいかなや人の世の
きづなも捨てて嘶けば
つきせぬ草に秋は来て
声も悲しき天の馬

かなしいかなや音を遠み
流るゝ水の岸にさく
ひとつの花に照らされて
飄り行く一葉舟