[hs-a35] 閑雅な食慾 – 閑雅な食慾

松林の中を歩いて
あかるい気分の珈琲店をみた。
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店である。
をとめは恋恋の羞をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
私はゆつたりとふほふくを取つて
おむれつ ふらいの類を喰べた。
空には白い雲が浮んで
たいそう閑雅な食慾である。

[hs-a34] 閑雅な食慾 – 怠惰の暦

いくつかの季節はすぎ
もう憂欝の桜も白つぽく腐れてしまつた
馬車はごろごろと遠くをはしり
海も 田舎も ひつそりとした空気の中に眠つている
なんといふ怠惰な日だらう
運命はあとからあとからとかげつてゆき
さびしい病欝は柳の葉かげにけむつている
もう暦もない 記憶もない
わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。
むかしの恋よ 愛する猫よ
わたしはひとつの歌を知つてる
さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻を投げよう
ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。

[hs-a33] さびしい青猫 – さびしい来歴

むくむくと肥えふとつて
白くくびれているふしぎな球形の幻像よ
それは耳もない 顔もない つるつるとして空にのぼる野蔦のやうだ
夏雲よ なんたるとりとめのない寂しさだらう
どこにこれといふ信仰もなく たよりに思ふ恋人もありはしない。
わたしは駱駝のやうによろめきながら
椰子の実の日にやけた核を噛みくだいた。
ああ こんな乞食みたいな生活から
もうなにもかもなくしてしまつた
たうとう風の死んでる野道へきて
もろこしの葉うらにからびてしまつた。
なんといふさびしい自分の来歴だらう。

[hs-a32] さびしい青猫 – 輪廻と転生

地獄の鬼がまはす車のやうに
冬の日はごろごろとさびしくまはつて
輪の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。
ああ こんな陰欝な季節がつづくあひだ
私は幻の駱駝にのつて
ふらふらとかなしげな旅行にでようとする。
どこにこんな荒寥の地方があるのだらう
年をとつた乞食の群は
いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆき
禿鷹の屍肉にむらがるやうに
きたない小虫が焼地の穢土にむらがつている。
なんといふいたましい風物だらう
どこにもくびのながい花が咲いて
それがゆらゆらと動いているのだ
考へることもない かうして暮れ方がちかづくのだらう
恋や孤独やの一生から
はりあひのない心像も消えてしまつて ほのかに幽霊のやうに見えるばかりだ。
どこを風見の鶏が見ているのか
冬の日のごろごろとる瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれている。

[hs-a31] さびしい青猫 – 五月の死びと

この生づくりにされたからだは
きれいに しめやかに なまめかしくも彩色されてる
その胸も その唇も その顔も その腕も
ああ みなどこもしつとりと膏油や刷毛で塗られている。
やさしい五月の死びとよ
わたしは緑金の蛇のやうにのたうちながら
ねばりけのあるものを感触し
さうして「死」の絨毯に肌身をこすりねりつけた。

[hs-a30] さびしい青猫 – 野鼠

どこに私らの幸福があるのだらう
泥土の砂を掘れば掘るほど
悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか。
春は幔幕のかげにゆらゆらとして
遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。
どこに私らの恋人があるのだらう
ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても
もう永遠に空想の娘らは来やしない。
なみだによごれためるとんのづぼんをはいて
私は日傭人のやうに歩いている
ああもう希望もない 名誉もない 未来もない。
さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが
野鼠のやうに走つて行つた。

[hs-a29] さびしい青猫 – 憂欝な風景

猫のやうに憂欝な景色である
さびしい風船はまつすぐに昇つてゆき
りんねるを着た人物がちらちらと居るではないか。
もうとつくにながい間
だれもこんな波止場を思つてみやしない。
さうして荷揚げ機械のばうぜんとしている海角から
いろいろさまざまな生物意識が消えて行つた。
そのうへ帆船には綿が積まれて
それが沖の方でむくむくと考へこんでいるではないか。
なんと言ひやうもない
身の毛もよだち ぞつとするやうな思ひ出ばかりだ。
ああ神よ もうとりかへすすべもない
さうしてこんなむしばんだ回想から いつも幼な児のやうに泣いて居よう。

[hs-a28] さびしい青猫 – 猫柳

つめたく青ざめた顔のうへに
け高くにほふ優美の月をうかべています
月のはづかしい面影
やさしい言葉であなたの死骸に話しかける。
ああ 露しげく
しつとりとぬれた猫柳 夜風のなかに動いています。
ここをさまよひきたりて
うれしい情のかずかずを歌ひつくす
そは人の知らないさびしい情慾 さうして情慾です。
ながれるごとき涙にぬれ
私はくちびるに血潮をぬる
ああ なにといふ恋しさなるぞ
この青ざめた死霊にすがりつきてもてあそぶ
夜風にふかれ
猫柳のかげを暗くさまよふよ そは墓場のやさしい歌ごえです。

[hs-a27] さびしい青猫 – かなしい囚人

かれらは青ざめたしやつぽをかぶり
うすぐらい尻尾の先を曳きずつて歩きまはる
そしてみよ そいつの陰欝なしやべるが泥土を掘るではないか。
ああ草の根株は掘つくりかへされ
どこもかしこも曇暗な日ざしがかげつている。
なんといふ退屈な人生だらう
ふしぎな葬式のやうに列をつくつて 大きな建物の影へ出這入りする
この幽霊のやうにさびしい影だ
硝子のぴかぴかするかなしい野外で
どれも青ざめた紙のしやつぽをかぶり
ぞろぞろと蛇の卵のやうにつながつてくる さびしい囚人の群ではないか。

[hs-a26] さびしい青猫 – 寄生蟹のうた

潮みづのつめたくながれて
貝の歯はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた
ああここにはもはや友だちもない 恋もない
渚にぬれて亡霊のやうな草を見ている
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい恋びとの吐息のやうです。
おぼろにみえる沖の方から
船人はふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる。
あやしくもここの磯辺にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹の幽霊ですよ。