[hs-a09] 幻の寝台 – 春の感情

ふらんすからくる煙草のやにのにほひのやうだ
そのにほひをかいでいると気がうつとりとする
うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情
つめたい銀いろの小鳥のなきごえ
春がくるときのよろこびは
あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのやうだ
ふるへる めづらしい野路のくさばな
おもたく雨にぬれた空気の中にひろがるひとつの音色
なやましき女のなきごえはそこにもきこえて
春はしつとりとふくらんでくるやうだ。
春としなれば山奥のふかい森の中でも
くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに
私のたましひはぞくぞくとして菌を吹き出す
たとへば毒だけ へびだけ べにひめじのやうなもの
かかる菌の類はあやしげなる色香をはなちて
ひねもすさびしげに匂つている。

春がくる 春がくる
春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ
そこにもここにも
ぞくぞくとしてふきだす菌 毒だけ
また薮かげに生えてほのかに光るべにひめじの類。

[hs-a41] 閑雅な食慾 – 蒼ざめた馬

冬の曇天の 凍りついた天気の下で
そんなに憂欝な自然の中で
だまつて道ばたの草を食つてる
みじめな しよんぼりした 宿命の 因果の 蒼ざめた馬の影です
わたしは影の方へうごいて行き
馬の影はわたしを眺めているやうす。

ああはやく動いてそこを去れ
わたしの生涯の映画幕から
すぐに すぐに外りさつてこんな幻像を消してしまへ
私の「意志」を信じたいのだ。馬よ!
因果の 宿命の 定法の みじめなる
絶望の凍りついた風景の乾板から
蒼ざめた影を逃走しろ。

[hs-a20] さびしい青猫 – 恐ろしい山

恐ろしい山の相貌をみた
まつ暗な夜空にけむりを吹きあげている
おほきな蜘蛛のやうな眼である。
赤くちろちろと舌をだして
うみざりがにのやうに平つくばつてる。
手足をひろくのばして麓いちめんに這ひつた
さびしくおそろしい闇夜である
がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。
自然はひつそりと息をひそめ
しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。
すぐ近いところにそびえ
怪異な相貌が食はうとする。

[hs-a52] 艶めける霊魂 – 片恋

市街を遠くはなれて行つて
僕等は山頂の草に坐つた
空に風景はふきながされ
ぎぼし ゆきしだ わらびの類
ほそくさよさよと草地に生えてる。

君よ弁当をひらき
はやくその卵を割つてください。
私の食慾は光にかつえ
あなたの白い指にまつはる
果物の皮の甘味にこがれる。

君よ なぜ早く篭をひらいて
鶏肉の 腸詰の 砂糖煮の 乾酪のご馳走をくれないのか
ぼくは飢え
ぼくの情慾は身をもだえる。

君よ
君よ
疲れて草に投げ出している
むつちりとした手足のあたり
ふらんねるをきた胸のあたり
ぼくの愛着は熱奮して 高潮して
ああこの苦しさ 圧迫にはたへられない。

高原の草に坐つて
あなたはなにを眺めているのか
あなたの思ひは風にながれ
はるかの市街は空にうかべる
ああ ぼくのみひとり焦燥して
この青青とした草原の上
かなしい願望に身をもだえる。

[hs-a31] さびしい青猫 – 五月の死びと

この生づくりにされたからだは
きれいに しめやかに なまめかしくも彩色されてる
その胸も その唇も その顔も その腕も
ああ みなどこもしつとりと膏油や刷毛で塗られている。
やさしい五月の死びとよ
わたしは緑金の蛇のやうにのたうちながら
ねばりけのあるものを感触し
さうして「死」の絨毯に肌身をこすりねりつけた。

[hs-a10] 幻の寝台 – 野原に寝る

この感情の伸びてゆくありさま
まつすぐに伸びてゆく喬木のやうに
いのちの芽生のぐんぐんとのびる。
そこの青空へもせいのびをすればとどくやうに
せいも高くなり胸はばもひろくなつた。
たいそううららかな春の空気をすひこんで
小鳥たちが喰べものをたべるやうに
愉快で口をひらいてかはゆらしく
どんなにいのちの芽生たちが伸びてゆくことか。
草木は草木でいつさいに
ああ どんなにぐんぐんと伸びてゆくことか。
ひろびろとした野原にねころんで
まことに愉快な夢をみつづけた。

[hs-a42] 閑雅な食慾 – 思想は一つの意匠であるか

欝蒼としげつた森林の樹木のかげで
ひとつの思想を歩ませながら
仏は蒼明の自然を感じた
どんな瞑想をもいきいきとさせ
どんな涅槃にも溶け入るやうな
そんな美しい月夜をみた。

「思想は一つの意匠であるか」
仏は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。

[hs-a21] さびしい青猫 – 題のない歌

南洋の日にやけた裸か女のやうに
夏草の茂つている波止場の向うへ ふしぎな赤錆びた汽船がはひつてきた
ふはふはとした雲が白くたちのぼつて
船員のすふ煙草のけむりがさびしがつてる。
わたしは鶉のやうに羽ばたきながら
さうして丈の高い野茨の上を飛びまはつた
ああ 雲よ 船よ どこに彼女は航海の碇をすてたか
ふしぎな情熱になやみながら
わたしは沈黙の墓地をたづねあるいた
それはこの草叢の風に吹かれている
しづかに 錆びついた 恋愛鳥の木乃伊であつた。

[hs-a53] 艶めける霊魂 – 夢

あかるい屏風のかげにすわつて
あなたのしづかな寝息をきく。
香炉のかなしいけむりのやうに
そこはかとたちまよふ
女性のやさしい匂ひをかんずる。
かみの毛ながきあなたのそばに
睡魔のしぜんな言葉をきく
あなたはふかい眠りにおち
わたしはあなたの夢をかんがふ
このふしぎなる情緒
影なきふかい想ひはどこへ行くのか。

薄暮のほの白いうれひのやうに
はるかに幽かな湖水をながめ
はるばるさみしい麓をたどつて
見しらぬ遠見の山の峠に
あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。

ああ なににあこがれもとめて
あなたはいづこへ行かうとするか
いづこへ いづこへ 行かうとするか
あなたの感傷は夢魔に饐えて
白菊の花のくさつたやうに
ほのかに神秘なにほひをたたふ。
(とりとめもない夢の気分とその抒情)

[hs-a32] さびしい青猫 – 輪廻と転生

地獄の鬼がまはす車のやうに
冬の日はごろごろとさびしくまはつて
輪の小鳥は砂原のかげに死んでしまつた。
ああ こんな陰欝な季節がつづくあひだ
私は幻の駱駝にのつて
ふらふらとかなしげな旅行にでようとする。
どこにこんな荒寥の地方があるのだらう
年をとつた乞食の群は
いくたりとなく隊列のあとをすぎさつてゆき
禿鷹の屍肉にむらがるやうに
きたない小虫が焼地の穢土にむらがつている。
なんといふいたましい風物だらう
どこにもくびのながい花が咲いて
それがゆらゆらと動いているのだ
考へることもない かうして暮れ方がちかづくのだらう
恋や孤独やの一生から
はりあひのない心像も消えてしまつて ほのかに幽霊のやうに見えるばかりだ。
どこを風見の鶏が見ているのか
冬の日のごろごろとる瘠地の丘で もろこしの葉が吹かれている。