[hs-t28] くさつた蛤 – なやましき春夜の感覚とその疾患

内部に居る人が畸形な病人に見える理由

わたしは窓かけのれいすのかげに立つて居ります、
それがわたくしの顔をうすぼんやりと見せる理由です。
わたしは手に遠めがねをもつて居ります、
それでわたくしは、ずつと遠いところを見て居ります、
につける製の犬だの羊だの、
あたまのはげた子供たちの歩いている林をみて居ります、
それらがわたくしの瞳を、いくらかかすんでみせる理由です。
わたくしはけさきやべつの皿を喰べすぎました、
そのうへこの窓硝子は非常に粗製です、
それがわたくしの顔をこんなに甚だしく歪んで見せる理由です。
じつさいのところを言へば、
わたくしは健康すぎるぐらいなものです、
それだのに、なんだつて君は、そこで私をみつめている。
なんだつてそんなに薄気味わるく笑つている。
おお、もちろん、わたくしの腰から下ならば、
そのへんがはつきりしないといふのならば、
いくらか馬鹿げた疑問であるが、
もちろん、つまり、この青白い窓の壁にそうて、
家の内部に立つているわけです。

[hs-a47] 閑雅な食慾 – 顔

ねぼけた桜の咲くころ
白いぼんやりした顔がうかんで
窓で見ている。
ふるいふるい記憶のかげで
どこかの波止場で逢つたやうだが
菫の病欝の匂ひがする
外光のきらきらする硝子窓から
ああ遠く消えてしまつた 虹のやうに。

私はひとつの憂ひを知る
生涯のうす暗い隅を通つて
ふたたび永遠にかへつて来ない。

[hs-a03] 幻の寝台 – 沖を眺望する

ここの海岸には草も生えない
なんといふさびしい海岸だ
かうしてしづかに浪を見ていると
浪の上に浪がかさなり
浪の上に白い夕方の月がうかんでくるやうだ
ただひとり出でて磯馴れ松の木をながめ
空にうかべる島と船とをながめ
私はながく手足をのばして寝ころんでいる
ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ
沖に向つて眺望する。

[hs-a42] 閑雅な食慾 – 思想は一つの意匠であるか

欝蒼としげつた森林の樹木のかげで
ひとつの思想を歩ませながら
仏は蒼明の自然を感じた
どんな瞑想をもいきいきとさせ
どんな涅槃にも溶け入るやうな
そんな美しい月夜をみた。

「思想は一つの意匠であるか」
仏は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。

[hs-t34] くさつた蛤 – 猫

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでいる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

[hs-t11] 雲雀料理 –

五月の朝の新緑と薫風は私の生活を貴族にする。したたる空色の窓の下で、私の愛する女と共に純銀のふおうくを動かしたい。私の生活にもいつかは一度、あの空に光る、雲雀料理の愛の皿を盗んで喰べたい。

[st-w24] 三 生のあけぼの – 一 たれかおもはむ

たれかおもはむ鴬の
涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の
花にうつろふ夢の間と
あゝよしさらば美酒に
うたひあかさん春の夜を

梅のにほひにめぐりあふ
春を思へばひとしれず
からくれないのかほばせに
流れてあつきなみだかな
あゝよしさらば花影に
うたひあかさん春の夜を

わがみひとつもわすられて
おもひわづらふこゝろだに
春のすがたをとめくれば
たもとににほふ梅の花
あゝよしさらば琴の音に
うたひあかさん春の夜を

[st-w57] 四 深林の逍遥、其他 – 天馬 鶏

花によりそふ鶏の
夫よ妻鳥よ燕子花
いづれあやめとわきがたく
さも似つかしき風情あり

姿やさしき牝鶏の
かたちを恥づるこゝろして
花に隠るゝありさまに
品かはりたる夫鳥や

雄々しくたけき雄鶏の
とさかの色も艶にして
黄なる口觜脚蹴爪
尾はしだり尾のなが/\し

問ふても見まし誰がために
よそほひありく夫鳥よ
妻守るためのかざりにと
いひたげなるぞいじらしき

画にこそかけれ花鳥の
それにも通ふ一つがひ
霜に侘寝の朝ぼらけ
雨に入日の夕まぐれ

空に一つの明星の
闇行く水に動くとき
日を迎へんと鶏の
夜の使を音にぞ鳴く

露けき朝の明けて行く
空のながめを誰か知る
燃ゆるがごとき紅の
雲のゆくへを誰か知る

闇もこれより隣なる
声ふりあげて鳴くときは
ひとの長眠のみなめざめ
夜は日に通ふ夢まくら

明けはなれたり夜はすでに
いざ妻鳥と巣を出でて
餌をあさらんと野に行けば
あなあやにくのものを見き

見しらぬ鶏の音も高に
あしたの空に鳴き渡り
草かき分けて来るはなぞ
妻恋ふらしや妻鳥を

ねたしや露に羽ぬれて
朝日にうつる影見れば
雄鶏に惜しき白妙の
雲をあざむくばかりなり

力あるらし声たけき
敵のさまを惧れてか
声色あるさまに羞じてかや
妻鳥は花に隠れけり

かくと見るより堪へかねて
背をや高めし夫鳥は
羽がきも荒く飛び走り
蹴爪に土をかき狂ふ

筆毛のさきも逆立ちて
血潮にまじる眼のひかり
二つの鶏のすがたこそ
是おそろしき風情なれ

妻鳥は花を馳け出でて
争闘分くるひまもなみ
たがひに蹴合ふ蹴爪には
火焔もちるとうたがはる

蹴るや左眼の的それて
羽に血しほの夫鳥は
敵の右眼をめざしつゝ
爪も折れよと蹴返しぬ

蹴られて落つるくれないの
血潮の花も地に染みて
二つの鶏の目もくるひ
たがひにひるむ風情なし

そこに声あり涙あり
争ひ狂ふ四つの羽
血潮に滑りし夫鳥の
あな仆れけん声高し

一声長く悲鳴して
あとに仆るゝ夫鳥の
羽に血潮の朱に染み
あたりにさける花紅し

あゝあゝ熱き涙かな
あるに甲斐なき妻鳥は
せめて一声鳴けかしと
屍に嘆くさまあはれ

なにとは知らぬかなしみの
いつか恐怖と変りきて
思ひ乱れて音をのみぞ
鳴くや妻鳥の心なく

我を恋ふらし音にたてて
姿も色もなつかしき
花のかたちと思ひきや
かなしき敵とならんとは

花にもつるゝ蝶あるを
鳥に縁のなからめや
おそろしきかな其の心
なつかしきかな其の情

紅に染みたる草見れば
鳥の命のもろきかな
火よりも燃ゆる恋見れば
敵のこゝろのうれしやな

見よ動きゆく大空の
照る日も雲に薄らぎて
花に色なく風吹けば
野はさびしくも変りけり

かなしこひしの夫鳥の
冷えまさりゆく其姿
たよりと思ふ一ふしの
いづれ妻鳥の身の末ぞ

恐怖を抱く母と子が
よりそふごとくかの敵に
なにとはなしに身をよする
妻鳥のこゝろあはれなれ

あないたましのながめかな
さきの楽しき花ちりて
空色暗く一彩毛の
雲にかなしき野のけしき

生きてかへらぬ鳥はいざ
夫か妻鳥か燕子花
いづれあやめを踏み分けて
野末を帰る二羽の鶏

[hs-a23] さびしい青猫 – くづれる肉体

蝙蝠のむらがつている野原の中で
わたしはくづれてゆく肉体の柱をながめた
それは宵闇にさびしくふるへて
影にそよぐ死びと草のやうになまぐさく
ぞろぞろと蛆虫の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。
ああこの影を曳く景色のなかで
わたしの霊魂はむずがゆい恐怖をつかむ
それは港からきた船のやうに 遠く亡霊のいる島島を渡つてきた
それは風でもない 雨でもない
そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ
さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に
わたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた。

[hs-t54] 見知らぬ犬 – 田舎を恐る

わたしは田舎をおそれる、
田舎の人気のない水田の中にふるへて、
ほそながくのびる苗の列をおそれる。
くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
田舎のあぜみちに坐つていると、
おほなみのやうな土壌の重みが、わたしの心をくらくする、
土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。

田舎の空気は陰欝で重くるしい、
田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。
わたしは田舎をおそれる、
田舎は熱病の青じろい夢である。