浅蜊のやうなもの、
蛤のやうなもの、
みじんこのやうなもの、
それら生物の身体は砂にうもれ、
どこからともなく、
絹いとのやうな手が無数に生え、
手のほそい毛が浪のまにまにうごいている。
あはれこの生あたたかい春の夜に、
そよそよと潮みづながれ、
生物の上にみづながれ、
貝るいの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、
とほく渚の方を見わたせば、
ぬれた渚路には、
腰から下のない病人の列があるいている、
ふらりふらりと歩いている。
ああ、それら人間の髪の毛にも、
春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、
よせくる、よせくる、
このしろき浪の列はさざなみです。
Category Archives: 詩
[hs-a51] 艶めける霊魂 – 花やかなる情緒
深夜のしづかな野道のほとりで
さびしい電灯が光つている
さびしい風が吹きながれる
このあたりの山には樹木が多く
楢、桧、山毛欅、樫、欅の類
枝葉もしげく欝蒼とこもつている。
そこやかしこの暗い森から
また遥かなる山山の麓の方から
さびしい弧灯をめあてとして
むらがりつどへる蛾をみる。
蝗のおそろしい群のやうに
光にうづまき くるめき 押しあひ死にあふ小虫の群団。
人里はなれた山の奥にも
夜ふけてかがやく弧灯をゆめむ。
さびしい花やかな情緒をゆめむ。
さびしい花やかな灯火の奥に
ふしぎな性の悶えをかんじて
重たい翼をばたばたさせる
かすてらのやうな蛾をみる
あはれな 孤独の あこがれきつたいのちをみる。
いのちは光をさして飛びかひ
光の周囲にむらがり死ぬ
ああこの賑はしく 艶めかしげなる春夜の動静
露つぽい空気の中で
花やかな弧灯は眠り 灯火はあたりの自然にながれている。
ながれている哀傷の夢の影のふかいところで
私はときがたい神秘をおもふ
万有の 生命の 本能の 孤独なる
永遠に永遠に孤独なる 情緒のあまりに花やかなる。
[hs-a20] さびしい青猫 – 恐ろしい山
恐ろしい山の相貌をみた
まつ暗な夜空にけむりを吹きあげている
おほきな蜘蛛のやうな眼である。
赤くちろちろと舌をだして
うみざりがにのやうに平つくばつてる。
手足をひろくのばして麓いちめんに這ひつた
さびしくおそろしい闇夜である
がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。
自然はひつそりと息をひそめ
しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。
すぐ近いところにそびえ
怪異な相貌が食はうとする。
[st-w25] 三 生のあけぼの – 二 あけぼの
紅細くたなびけたる
雲とならばやあけぼのの
雲とならばや
やみを出でては光ある
空とならばやあけぼのの
空とならばや
春の光を彩れる
水とならばやあけぼのの
水とならばや
鳩に履まれてやはらかき
草とならばやあけぼのの
草とならばや
[hs-a47] 閑雅な食慾 – 顔
ねぼけた桜の咲くころ
白いぼんやりした顔がうかんで
窓で見ている。
ふるいふるい記憶のかげで
どこかの波止場で逢つたやうだが
菫の病欝の匂ひがする
外光のきらきらする硝子窓から
ああ遠く消えてしまつた 虹のやうに。
私はひとつの憂ひを知る
生涯のうす暗い隅を通つて
ふたたび永遠にかへつて来ない。
[hs-a39] 閑雅な食慾 – 天候と思想
書生は陰気な寝台から
家畜のやうに這ひあがつた
書生は羽織をひつかけ
かれの見る自然へ出かけ突進した。
自然は明るく小綺麗でせいせいとして
そのうへにも匂ひがあつた
森にも 辻にも 売店にも
どこにも青空がひるがへりて美麗であつた
そんな軽快な天気に
美麗な自働車が 娘等がはしりつた。
わたくし思ふに
思想はなほ天候のやうなものであるか
書生は書物を日向にして
ながく幸福のにほひを嗅いだ。
[hs-a02] 幻の寝台 – 寝台を求む
どこに私たちの悲しい寝台があるか
ふつくりとした寝台の 白いふとんの中にうづくまる手足があるか
私たち男はいつも悲しい心でいる
私たちは寝台をもたない
けれどもすべての娘たちは寝台をもつ
すべての娘たちは 猿に似たちひさな手足をもつ
さうして白い大きな寝台の中で小鳥のやうにうづくまる
すべての娘たちは 寝台の中でたのしげなすすりなきをする
ああ なんといふしあはせの奴らだ
この娘たちのやうに
私たちもあたたかい寝台をもとめて
私たちもさめざめとすすりなきがしてみたい。
みよ すべての美しい寝台の中で 娘たちの胸は互にやさしく抱きあふ
心と心と
手と手と
足と足と
からだとからだとを紐にてむすびつけよ
心と心と
手と手と
足と足と
からだとからだとを撫でることによりて慰めあへよ
このまつ白の寝台の中では
なんといふ美しい娘たちの皮膚のよろこびだ
なんといふいじらしい感情のためいきだ。
けれども私たち男の心はまづしく
いつも悲しみにみちて大きな人類の寝台をもとめる
その寝台はばね仕掛けでふつくりとしてあたたかい
まるで大雪の中にうづくまるやうに
人と人との心がひとつに解けあふ寝台
かぎりなく美しい愛の寝台
ああ どこに求める 私たちの悲しい寝台があるか
どこに求める
私たちのひからびた醜い手足
このみじめな疲れた魂の寝台はどこにあるか。
[st-w51] 四 深林の逍遥、其他 – 懐古
天の河原にやほよろづ
ちよろづ神のかんつどひ
つどひいませしあめつちの
始のときを誰か知る
それ大神の天雲の
八重かきわけて行くごとく
野の鳥ぞ啼く東路の
碓氷の山にのぼりゆき
日は照らせども影ぞなき
吾妻はやとこひなきて
熱き涙をそゝぎてし
尊の夢は跡も無し
大和の国の高市の
雷山に御幸して
天雲のへにいほりせる
御輦のひゞき今いづこ
目をめぐらせばさゞ波や
志賀の都は荒れにしと
むかしを思ふ歌人の
澄める怨をなにかせん
春は霞める高台に
のぼりて見ればけぶり立つ
民のかまどのながめさへ
消えてあとなき雲に入る
冬はしぐるゝ九重の
大宮内のともしびや
さむさは雪に凍る夜の
竜のころもはいろもなし
むかしは遠き船いくさ
人の血潮の流るとも
今はむなしきわだつみの
まん/\としてきはみなし
むかしはひろき関が原
つるぎに夢を争へど
今は寂しき草のみぞ
ばう/\としてはてもなき
われ今秋の野にいでて
奥山高くのぼり行き
都のかたを眺むれば
あゝあゝ熱きなみだかな
[hs-a30] さびしい青猫 – 野鼠
どこに私らの幸福があるのだらう
泥土の砂を掘れば掘るほど
悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか。
春は幔幕のかげにゆらゆらとして
遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。
どこに私らの恋人があるのだらう
ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても
もう永遠に空想の娘らは来やしない。
なみだによごれためるとんのづぼんをはいて
私は日傭人のやうに歩いている
ああもう希望もない 名誉もない 未来もない。
さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが
野鼠のやうに走つて行つた。
[st-w49] 四 深林の逍遥、其他 – 昼の夢
花橘の袖の香の
みめうるはしきをとめごは
真昼に夢を見てしより
さめて忘るゝ夜のならひ
白日の夢のなぞもかく
忘れがたくはありけるものか
ゆめと知りせばなまなかに
さめざらましを世に出でて
うらわかぐさのうらわかみ
何をか夢の名残ぞと
問はゞ答へん目さめては
熱き涙のかわく間もなし