[st-w20] 二 六人の処女 – おくめ

こひしきまゝに家を出で
こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと来て見れば
千鳥鳴くなり夕まぐれ

こひには親も捨てはてて
やむよしもなき胸の火や
鬢の毛を吹く河風よ
せめてあはれと思へかし

河波暗く瀬を早み
流れて巌に砕くるも
君を思へば絶間なき
恋の火炎に乾くべし

きのふの雨の小休なく
水嵩や高くまさるとも
よひ/\になくわがこひの
涙の滝におよばじな

しりたまはずやわがこひは
花鳥の絵にあらじかし
空鏡の印象砂の文字
梢の風の音にあらじ

しりたまはずやわがこひは
雄々しき君の手に触れて
嗚呼口紅をその口に
君にうつさでやむべきや

恋は吾身の社にて
君は社の神なれば
君の祭壇の上ならで
なににいのちを捧げまし

砕かば砕け河波よ
われに命はあるものを
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなん

心のみかは手も足も
吾身はすべて火炎なり
思ひ乱れて嗚呼恋の
千筋の髪の波に流るゝ

[hs-a18] 憂欝なる桜 – 鶏

しののめきたるまへ
家家の戸の外で鳴いているのは鶏です
声をばながくふるはして
さむしい田舎の自然からよびあげる母の声です
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

朝のつめたい臥床の中で
私のたましひは羽ばたきをする
この雨戸の隙間からみれば
よもの景色はあかるくかがやいているやうです
されどもしののめきたるまへ
私の臥床にしのびこむひとつの憂愁
けぶれる木木の梢をこえ
遠い田舎の自然からよびあげる鶏のこえです
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

恋びとよ
恋びとよ
有明のつめたい障子のかげに
私はかぐ ほのかなる菊のにほひを
病みたる心霊のにほひのやうに
かすかにくされゆく白菊のはなのにほひを
恋びとよ
恋びとよ。

しののめきたるまへ
私の心は墓場のかげをさまよひあるく
ああ なにものか私をよぶ苦しきひとつの焦燥
このうすい紅いろの空気にはたへられない
恋びとよ
母上よ
早くきてともしびの光を消してよ
私はきく 遠い地角のはてを吹く大風のひびきを
とをてくう、とをるもう、とをるもう。

[st-w39] 四 深林の逍遥、其他 – 四

ゆびをりくればいつたびも
かはれる雲をながむるに
白きは黄なりなにをかも
もつ筆にせむ色彩の
いつしか淡く茶を帯びて
雲くれないとかはりけり
あゝゆふまぐれわれひとり
たどる林もひらけきて
いと静かなる湖の
岸辺にさける花躑躅
うき雲ゆけばかげ見えて
水に沈める春の日や
それ紅の色染めて
雲紫となりぬれば
かげさへあかき水鳥の
春のみづうみ岸の草
深き林や花つゝじ
迷ふひとりのわがみだに
深紫の紅の
彩にうつろふ夕まぐれ

[hs-t40] くさつた蛤 – 贈物にそへて

兵隊どもの列の中には、
性分のわるいものが居たので、
たぶん標的の図星をはづした。
銃殺された男が、
夢のなかで息をふきかへしたときに、
空にはさみしいなみだがながれていた。
『これはさういふ種類の煙草です』

[hs-t24] 悲しい月夜 – 危険な散歩

春になつて、
おれは新らしい靴のうらにごむをつけた、
どんな粗製の歩道をあるいても、
あのいやらしい音がしないやうに、
それにおれはどつさり壊れものをかかへこんでる、
それがなによりけんのんだ。
さあ、そろそろ歩きはじめた、
みんなそつとしてくれ、
そつとしてくれ、
おれは心配で心配でたまらない、
たとへどんなことがあつても、
おれの歪んだ足つきだけは見ないでおくれ。
おれはぜつたいぜつめいだ、
おれは病気の風船のりみたいに、
いつも憔悴した方角で、
ふらふらふらふらあるいているのだ。

[hs-t33] くさつた蛤 – ありあけ

ながい疾患のいたみから、
その顔はくもの巣だらけとなり、
腰からしたは影のやうに消えてしまひ、
腰からうへには薮が生え、
手が腐れ
身体いちめんがじつにめちやくちやなり、
ああ、けふも月が出で、
有明の月が空に出で、
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、
畸形の白犬が吠えている。
しののめちかく、
さみしい道路の方で吠える犬だよ。

[hs-t42] さびしい情慾 – 恋を恋する人

わたしはくちびるにべにをぬつて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、
わたしはしなびきつた薄命男だ、
ああ、なんといふいじらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、
腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた、
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひつそりとしなをつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬつて、
まつしろの高い樹木にすがりついた。

[st-w38] 四 深林の逍遥、其他 – 三

今しもわたる深山かぜ
春はしづかに吹きかよふ
林の簫の音をきけば
風のしらべにさそはれて
みれどもあかぬ白妙の
雲の羽袖の深山木の
千枝にかゝりたちはなれ
わかれ舞ひゆくすがたかな
樹々をわたりて行く雲の
しばしと見ればあともなき
高き行衛にいざなはれ
千々にめぐれる巌影の
花にも迷ひ石に倚り
流るゝ水の音をきけば
山は危ふく石わかれ
削りてなせる青巌に
砕けて落つる飛潭の
湧きくる波の瀬を早み
花やかにさす春の日の
光炯照りそふ水けぶり
独り苔むす岩を攀じ
ふるふあゆみをふみしめて
浮べる雲をうかゞへば
下にとゞろく飛潭の
澄むいとまなき岩波は
落ちていづくに下るらん

山精

なにをいざよふ
むらさきの
ふかきはやしの
はるがすみ

なにかこひしき
いはかげを
ながれていづる
いづみがは

木精

かくれてうたふ
野の山の
こえなきこえを
きくやきみ

つゝむにあまる
はなかげの
水のしらべを
しるやきみ

山精

あゝながれつゝ
こがれつゝ
うつりゆきつゝ
うごきつゝ

あゝめぐりつゝ
かへりつゝ
うちわらひつゝ
むせびつゝ

木精

いまひのひかり
はるがすみ
いまはなぐもり
はるのあめ

あゝあゝはなの
つゆに酔ひ
ふかきはやしに
うたへかし

[st-w28] 三 生のあけぼの – 五 うてや鼓

うてや鼓の春の音
雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざされて
世は春の日とかはりけり

ひけばこぞめの春霞
かすみの幕をひきとじて
花と花とをぬふ糸は
けさもえいでしあをやなぎ

霞のまくをひきあけて
春をうかゞふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ
春の台といふべけれ

小蝶よ花にたはぶれて
優しき夢をみては舞ひ
酔ふて羽袖もひら/\と
はるの姿をまひねかし

緑のはねのうぐひすよ
梅の花笠ぬひそへて
ゆめ静なるはるの日の
しらべを高く歌へかし